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ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ
Henriette Alexandrine
ナッサウ=ヴァイルブルク家

全名
称号 オーストリア大公妃
テシェン公妃
出生 (1797-10-30) 1797年10月30日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国バイロイト、エレミタージュ宮殿
死去 (1829-12-29) 1829年12月29日(32歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン
埋葬 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国カプツィーナー納骨堂
配偶者 カール・フォン・エスターライヒ=テシェン
子女
父親 フリードリヒ・ヴィルヘルム
母親 ルイーゼ・フォン・キルヒベルク
宗教 キリスト教改革派教会
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ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルクHenriette Alexandrine von Nassau-Weilburg, 1797年10月30日 - 1829年12月29日)は、オーストリア大公テシェン(チェシン)公カールの妃。

生涯

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ヘンリエッテ・アレクサンドリーネはナッサウ=ヴァイルブルク侯フリードリヒ・ヴィルヘルムと、その妻でザイン=ハヒェンブルク伯領の女子相続人であるルイーゼ・フォン・キルヒベルク英語版(1772年 - 1827年)の次女として、バイロイトのエレミタージュ宮殿で生まれた。ナッサウ公ヴィルヘルムの妹で、ルクセンブルク大公アドルフの叔母に当たる。

父方の祖父母はナッサウ=ヴァイルブルク侯カール・クリスティアンとその妃のオラニエ=ナッサウ公女カロリーネである。祖母カロリーネはオラニエ公ウィレム4世とイギリスのプリンセス・ロイヤルアンの娘だった。曾祖母のアンはイギリス王ジョージ2世キャロライン・オブ・アーンズバック夫妻の長女である。

18歳になる直前の1815年9月17日、ヴァイルブルクで44歳のオーストリア大公カールと結婚した。カールは神聖ローマ皇帝レオポルト2世とその皇后マリア・ルドヴィカの息子だが、子供のいなかった伯母のテシェン女公マリア・クリスティーナとテシェン公アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェンの養子になって育てられた。結婚した時点でのカールはテシェン公位の相続人であり、7年後の1822年に継承した。

2人の結婚は非常に幸福なものになり、5男2女の7子を儲けた。

ウィーン会議の際、ファニー・フォン・アルンシュタイン英語版男爵夫人はベルリンクリスマスツリーを飾る習慣を紹介した。それを1816年からヘンリエッテ・アレクサンドリーネが自身の家庭に取り入れて飾ったことにより、ウィーンにクリスマスツリーを普及させた人物として知られている[1]

1829年猩紅熱に罹った子どもを看病する間に同じ病気になり、32歳で亡くなった。カプツィーナー教会ドイツ語版地下にあるカプツィーナー納骨堂に埋葬されている。ヘンリエッテ・アレクサンドリーネはカトリックハプスブルク=ロートリンゲン家の一族が安置されるこの納骨堂の中で、唯一のプロテスタント教徒の埋葬者である。これは義兄のフランツ1世の命令により許可された。

子女

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カール大公一家(ヨハン・エンデル画・1832年、軍事博物館収蔵)
長女マリア・テレジアがカールに寄り添い、故人のヘンリエッテ・アレクサンドリーネは左奥の胸像

注釈

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出典

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  1. ^ News Detail” (ドイツ語). Jüdisches Museum Wien. 2022年7月24日閲覧。

外部リンク

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