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プスコフ県

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ロシア帝国におけるプスコフ県の位置(1914年)
プスコフ県の地図(ブロックハウス・エフロン百科事典
県章

プスコフ県(プスコフけん、ロシア語: Псковская губерния)は帝政ロシア(後にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国)の県(グベールニヤ)である。行政中心地はプスコフであった。1772年に成立し、ソ連成立後の1927年に廃止された。廃止された後はレニングラード州の一部となった。

歴史

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前史

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後に行政中心地となる都市プスコフは、1510年にヴァシリー3世によってモスクワ大公国に併合されるまで、プスコフ公国の首都であった。プスコフ県域は、1708年にピョートル1世が帝政ロシア領を8つの県に区分した際には[1]、インゲルマンランディヤ県(ru)に含まれていた。また、同県は1710年にサンクトペテルブルク県(ru)に改称した。プロヴィンツィヤ制が発足すると、1719年にサンクトペテルブルク県には下位区分として11のプロヴィンツィヤが制定された[2]。そのうちの1つがプスコフ・プロヴィンツィヤであり、プスコフ、グドフイズボルスクオストロフオポーチカホルム、ザヴォロチエ(ru)、プストルジェフ(1777年よりノヴォルジェフに改称)、コブィリスク(ru)を行政中心地とする郡(ウエズド)がさらにプロヴィンツィヤの下位区分として設置された。1727年に、サンクトペテルブルグ県からノヴゴロド県(ru)が分離すると、プスコフ・プロヴィンツィヤはノヴゴロド県の管轄となった。

帝政ロシア期

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1772年、第1次ポーランド分割によって帝政ロシア領が拡大すると、ノヴゴロド県内のプスコフ・プロヴィンツィヤ並びにヴェリーキエ=ルーキ・プロヴィンツィヤ(ru)に、新たに獲得・新設したドヴィナ・プロヴィンツィヤ(ru)、ポロツク・プロヴィンツィヤ(ru)を加えたプスコフ県が発足した。また、同年末には、当初はモギリョフ県に区分されていたヴィテプスク・プロヴィンツィヤが編入された[3][注 1]。なお、発足当時の県都はオポーチカに置かれていた。

1776年の第2次ポーランド分割の後、プスコフ県南部はポロツク県として分離し[4]、ノヴゴロド県からポルホフ郡(ru)、グドフ郡(ru)が編入された[注 2]。また、行政区改編の際にプスコフが県都となった。

1777年、エカテリーナ2世の行政改革により、地方のグベールニヤナメストニチェストヴォに改称されたため、名称がプスコフ・ナメストニチェストヴォとなり、その下位区分は10郡(ヴェリーキエ・ルーキ郡(ru)、グドフ郡、ルーガ郡(ru)、オポーチカ郡(ru)、ポルホフ郡、プスコフ郡(ru)、ノヴォルジェフ郡(ru)、トロペツ郡(ru)、ホルム郡(ru))に整理された。その後1781年にグドフ郡、ルーガ郡がサンクトペテルブルク県に編入され[注 3]、その翌年にはペチョールィ郡が分離・新設された。

1796年、ナメストニチェストヴォ制が廃止され、再びプスコフ県が設置された。この改編の際に、ペチョールィ郡、ノヴォルジェフ郡、ホルム郡が廃止・統合されるが[5]、1802年にノヴォルジェフ郡、ホルム郡は再設置された[6]。最終的にプスコフ県は8郡となり、帝政ロシア崩壊まで変更はなかった。

プスコフ県の下位区分(1802年 - 1919年)
行政中心地 面積(露里²) 郷全域人口(人) 行政中心地人口(人)
県全体 プスコフ 37971.3 112,2317 7.2598
ヴェリーキエ・ルーキ郡(ru) ヴェリーキエ・ルーキ 4 173.3 12,3779 8466
ノヴォルジェフ郡(ru) ノヴォルジェフ 3247.8 11,3769 2838
オポーチカ郡(ru) オポーチカ 4069.9 13,5654 5735
オストロフ郡(ru) オストロフ 4357.0 16,1877 6268
ポルホフ郡(ru) ポルホフ 6045.9 17,5853 5551
プスコフ郡(ru) プスコフ 5142.2 22,6756 3,0478
トロペツ郡(ru) トロペツ 5222.0 9,6472 7368
ホルム郡(ru) ホルム 5713.2 8,8157 5894
[註]
・面積は平方ベルスタ(露里)。1ベルスタ = 約1067メートル[7]
・人口は1897年の統計による[8]
民族比率(1897年[9]
ロシア人 エストニア人 ラトビア人 ユダヤ人 フィン人
県全体 94.7% 2.3%
ヴェリーキエ・ルーキ郡 96.7%
ノヴォルジェフ郡 97.9%
オポーチカ郡 98.5%
オストロフ郡 96.5% 1.8%
ポルホフ郡 97.8%
プスコフ郡 87.5% 7.8% 1.7%
トロペツ郡 92.7% 3.0% 1.4% 1.7%
ホルム郡 93.4% 2.5% 1.1% 1.1%

ソビエト連邦期

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1917年の十月革命の後、バルト三国が独立したことで、1920年にプスコフ県の西部はエストニアラトビア領となった(プィタロヴォ等)。1924年にヴィテプスク県からヴェリジ郡(ru)、ネヴェリ郡(ru)、セヴェジ郡(ru)が編入した。この改編後のプスコフ県の面積は5,1716Km²であり、1926年時点で人口は178万8418人となっていた。なお、1918年4月に、プスコフ県は他の7県と共に[注 4]、北部州共産自治体連合(ru)の行政下位区分となったが[注 5][訳語疑問点]、この行政単位は1919年には廃止されている。

1927年、レニングラード州に統合される形で、プスコフ県は廃止された[11]

脚注

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注釈

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  1. ^ モギリョフ県もまた、第1次ポーランド分割に際して新設された県であり、割譲によって得た地域のうち、南部に設置されたのがモギリョフ県、北部がプスコフ県である。
  2. ^ この前年、プロヴィンツィヤ制は廃止され、県の下位区分名はウエズド(郡)となっていた。
  3. ^ 首都サンクトペテルブルクを含む一帯は、地方行政区画であるナメストニチェストヴォに改称されなかった。
  4. ^ ペトログラード県(旧サンクトペテルブルク県(ru))、ノヴゴロド県(ru)、オロネツ県(ru)アルハンゲリスク県ヴォログダ県、チェレポヴェツ県(ru)、北ドヴィナ県(ru)
  5. ^ 「北部州共産自治体連合」はロシア語: Союз коммун Северной областиの直訳による。「共産自治体」はКоммунаからの訳出による[10]

出典

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  1. ^ 100 главных документов Российской истории. Указ об учреждении губерний. 18.12.1708
  2. ^ Санкт-Петербургская губерния // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона
  3. ^ Тархов С. А. Изменение административно-территориального деления России за последние 300 лет 1708—1914
  4. ^ Нацыянальныя сімвалы Беларусі. Ад імперыі да рэспублікі
  5. ^ Административно-территориальное деление Псковской области (1917—2000 гг.) : Справочник : в 2 кн. — 2-е изд.. перераб. и доп. — Псков : Государственный архив Псковской области. 2002. — Кн. 1.
  6. ^ Псковская губерния // Малый энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона : в 4 т. — СПб.. 1907—1909.
  7. ^ 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年、P87
  8. ^ Демоскоп Weekly. Первая всеобщая перепись населения Российской Империи 1897 г. Наличное население в губерниях. уездах. городах Российской Империи (без Финляндии)
  9. ^ Демоскоп Weekly — Приложение. Справочник статистических показателей
  10. ^ 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年、P368
  11. ^ История административного деления Псковской области

座標: 北緯57度30分 東経29度0分 / 北緯57.500度 東経29.000度 / 57.500; 29.000