フロイド・メイウェザー・シニア
![]() 2009年、リッキー・ハットンvs.マニー・パッキャオの記者発表にて
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基本情報 | |
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本名 | フロイド・ジョイ・メイウェザー |
階級 | ウェルター級 |
国籍 | ![]() |
誕生日 | 1952年10月19日(65歳) |
出身地 | ![]() ミシシッピー州エーモリー |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 36 |
勝ち | 29 |
KO勝ち | 19 |
敗け | 6 |
引き分け | 1 |
フロイド・メイウェザー・シニア(Floyd Mayweather, Sr、1952年10月19日 - )は、アメリカ合衆国ミシシッピー州出身の元プロボクサー、現男性トレーナー。本名はフロイド・ジョイ・メイウェザー(Floyd Joy Mayweather)。世界5階級制覇王者フロイド・メイウェザー・ジュニアは息子。世界2階級制覇王者ロジャー・メイウェザーとジェフ・メイウェザーは弟。
概要[編集]
プロボクサーとしては大成しなかったが、ボクシング史上に残る名ボクシングトレーナーとして知られる。難病の肺サルコイドーシスを患っている。メイウェザー・ジュニアが1歳の時に、メイウェザー・シニアは義理の兄弟からショットガンで足を撃たれているが、この時自身が撃たれないようにするために、メイウェザー・ジュニアを盾代わりに使った[1]。
来歴[編集]
ボクサー時代[編集]
1985年4月26日、USBA全米ウェルター級王座に挑戦するも、0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。デビュー35戦目で初のタイトルマッチ出場となった。
世界ランカーであった時期に、当時米国ボクシング界のホープで後の五階級制覇王者シュガー・レイ・レナードと対戦したことがある。試合は10回にレナードの高速連打をあびTKO負け。
トレーナー時代[編集]
ボクシングトレーナーとして、幼少期を中心に息子であるフロイド・メイウェザー・ジュニア、オスカー・デ・ラ・ホーヤ(2001年 - 2006年)、チャド・ドーソン、リッキー・ハットン(ポール・マリナッジ戦とマニー・パッキャオ戦)、ホアン・グズマン、レイラ・アリ、ジョゼフ・アグベコなどを指導した。2007年にデ・ラ・ホーヤがメイウェザー・ジュニアと対戦する時、シニアは普段は25万ドルでデ・ラ・ホーヤのトレーナーに就いていたがこの試合に限っては異例の高額条件となる200万ドルをデ・ラ・ホーヤに提示する、しかしデ・ラ・ホーヤは支払いを断り代わりにフレディ・ローチをトレーナーに雇った[2]。
息子であるフロイド・メイウェザー・ジュニアにボクシングを教え、マネージャーも務めた。1998年にはマネージャー・オブ・イヤーに選出されている。
1993年、メイウェザー・ジュニアが16歳の時にコカイン密売で有罪判決を受け、5年間半刑務所で服役した。1998年に出所後、メイウェザー・ジュニアのトレーナーとマネージャーに復帰するが、2年ほど経つと喧嘩別れをしてしまい、居候していた家を追い出され、使用を許可されていた車も取り上げられた[1]。幼少期とこの2年間を除き、メイウェザー・ジュニアのトレーナーには弟のロジャー・メイウェザーが就いている。
2009年、ロジャー・メイウェザーが家庭内暴力の罪で刑務所に6ヶ月間服役する。この時にシニアとジュニアとの関係が一時的に修復するが、ロジャーが出所後ジムへ戻ってくると今度はロジャーとの兄弟喧嘩が勃発、ジュニアがロジャーを選んだことで、再びシニアは疎遠となった。
2013年、メイウェザー・ジュニアのトレーナーを長年務めてきたロジャー・メイウェザーが体調を崩し気味で、メイウェザー・ジュニアとの緊張関係も和らいできたこともあり、2013年9月のサウル・アルバレス戦ではチーフセコンドを努めた。
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ a b “Stormy Mayweather”. NYDailyNews.com (2007年4月30日). 2014年2月10日閲覧。
- ^ “Roach named to train De La Hoya”. ESPN.com (2007年1月30日). 2014年2月15日閲覧。
外部リンク[編集]
- フロイド・メイウェザー・シニアの戦績 - BoxRec(英語)