バイオリンはどうやってできた

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わらたばに座りバイオリンを弾く少年の絵画
ヴァシュタグ・ジェルジュ英語版作、「ジプシー少年のバイオリン弾き(Hegedűs Cigány Fiú)」

「ヴァイオリンはどうやってできた」(Die Erschaffung der Geige)は、トランシルヴァニア地方のロマおとぎ話。言語学者・民俗学者ハインリヒ・フォン・ヴィスロッキドイツ語版により初めて筆記記録され、『さすらいのチゴイナーについて:トランシルヴァニア・チゴイナーの生活風景』(ドイツ語: Vom wandernden Zigeunervolke. Bilder aus dem Leben der Siebenbürger Zigeuner)(ドイツ語1890年)で発表された[1]。ポーランドの類話に「魔法の箱」がある。

あらすじ[編集]

貧しい夫婦に子供ができず、妻が森で出会った老女に不平をもらす。老婆は知恵を授け、「家に帰ってカボチャを割り、ミルクを注いで飲め。そうすれば男の子を授かり、その子は運と富に恵まれるだろう」と教示する。立派な男の子は生まれるが、母親は産後まもなく病没する。

20歳になった青年は、立身のため世界を旅し、裕福な王が治める大都市にたどりつく。王には自慢の王女がいたが、世界で誰も成したためしのない何かを披露できる人物にこれを嫁がせようと決めていた[1]

これまで多くの挑戦者が失敗し、処刑されてきた。青年は、王女をもらいたいのですが何をすればよいか教えてくださいと不躾に聞き、王の命で地下牢に放り込まれる。するとマトゥヤ(Matuya)という妖精の女王が現れ、手助けをする。青年に箱と棒を与えた妖精は、さらに自分の髪の毛を何本か抜いて渡し、箱と棒にそれぞれ弦のように張れ、と指示した。こうしてできた楽器に弓をつがえて演奏すると、妖精が楽器に向けた笑いや嘆き声にあわせて、聴衆に喜怒哀楽が沸き起こった。楽才を王に認められ、青年は王女を妻にもらいうけた。「こうしてこの世にヴァイオリンはできたとさ」と物語は締めくくる[1]

起源・類話・分布[編集]

民話から発祥する魔法譚。おとぎ話の定番である老婆と善なる妖精が登場し、いずれとも魔法使いである。妖精マトゥヤは、インドに伝わる魔法物語に由来する(ロマの物語は多い)が、トランシルヴァニア、ハンガリーポーランドロシアセルビアのロマ神話ではウルシトリ英語版の女王とされる。ウルシトリは山肌の御殿にすむ妖精たちで、歌や舞踏を好み、音楽の象徴である[2]

ロマ人のなかでも有名屈指なおとぎ話で、幾つものおとぎ話集に所収されている[3][4][5]。朗読やラジオドラマ化、おとぎ芝居化され、教材にも使われる[6][7][8][9]

よく似た内容なのがポーランドの作家イェジィ・フィツォフスキによる再話「魔法の箱」である(原題 Zaczarowana skrzynka 、Gałązka z drzewa słońca (1961年)所収)。このポーランド版では、マトゥヤ(Matuja)という名のブナの木の精霊が、同じくくりぬいたカボチャにミルクを注いで飲めと勧め、無事に男の子が誕生し、「幸運」を意味する「バフタロー(Bachtalo)」と名付けられる[10][11]

トランシルヴァニアおとぎ話には、もうひとつ同題名の「ヴァイオリンはどうやってできた」があるが(これもヴィスロッキが刊行)、これはハッピーエンド英語版を欠き、話筋も脈絡がもつれるため、知名度は低い。あらすじでは、若い女が裕福な狩人に恋慕するが振り向いてもらえずに悪魔と接触する。家族を犠牲に悪魔のヴァイオリンを入手し狩人を誘惑する。彼女の父親が楽器の函となり、4人の男の兄弟は弦、母親は弓となる。結末には、若い女は悪魔を崇拝することを拒み連れ去られる。森林に置き去りにされたヴァイオリンは、やがてジプシーの旅人に拾われる[12]。いずれも聴衆に笑いと悲しみが伝わる物語である[1]

由来譚は神話の類型のひとつであるが、これは楽器の発祥を伝える数少ないおとぎ話のひとつである。他の例にハンガリーの「ヴァイオリン」のおとぎ話やモンゴルの「モリンホール」の由来譚が挙げられるが、いずれもトランシルヴァニアのヴァイオリン起源との共通性は乏しい。ギリシア神話では、パーンに追われたシューリンクス英語版、ついで楽器の葦笛(パンフルート)となった変身譚が有名である[13]

解釈[編集]

音楽療法士で民話と音楽の関連の研究家でもあるローゼマリー・テュプカードイツ語版は、この物語についての現代の聴衆の反応をデータにとり、解釈学を用いて解析を試みている。手法としては研究対象者から物語全体についての感想に加え、各テーマ(貧困、子宝に恵まれない夫婦、裕福な王とその美しい王女、前人未到の事績の達成)についての意見を収集している[14]

テュプカーによれば、これは「貧困と富裕」など、対極する世界を描く物語である。裕福な王は、王女を物品のように所有・支配し、その心情を汲むことはせず、意のままに褒賞として利用する。ここでは物欲、成功と挫折、英断などがテーマとなっており、物語中では競技の場面がその最たる例である。そして世の中無理なものはしょせん無理なのであって、老婆や妖精など魔法の助力がなくばおいそれと達成はできない[14]

そうした競争社会と隔絶した世界が、すなわちヴァイオリンの世界であるが、ここでは単なる楽器というより、音楽の黎明そのものを意味している。心動かされ、互いの心の琴線に触れ、視覚にも聴覚にも訴える刺激が「世にも初めてのもの」として披露されたことを、この物語は、象徴している[14]

このおとぎ話は、性欲のない世界における男女共存も表象している。精神分析学の観点からすれば、「生殖性英語版」(または「世代発生性」ドイツ語: Generativität)や、トライアンギュレーション英語版の領域である。感情に訴える音楽家の力とは、王の権力と根本的に異なっている[14]

貧しい青年も、王女も、不完全な家庭という境遇にあることが指摘される。青年の両親のうち夫のほうは「父親」として紹介されることはなく、王女の母親はまったく登場しない[15]

ヴァイオリンは、笑いと涙、喜楽と悲哀、愛と死という二元性を表現できる、感情的な楽器とされている。しかし、おとぎ話と違って、現実には長年の練習を経ずには、そうした感情を聴衆に伝えるには至らないものである[15]

参考文献[編集]

  1. ^ a b c d Wlislocki, Heinrich von (1890), Vom wandernden Zigeunervolke. Bilder aus dem Leben der Siebenbürger Zigeuner. Geschichtliches, Ethnologisches, Sprache und Poesie, Hamburg: Richter, pp. 221–, https://books.google.com/books?id=ZoQiXJgXGJ0C&pg=PA221 
  2. ^ Berger, Hermann (1984), “Mythologie der Zigeuner”, Götter und Mythen des indischen Subkontinents (Stuttgart: Hans Wilhelm Haussig): pp. 773-824 オンライン版 p. 44)2016年3月1日閲覧。
  3. ^ Diedrichs Zigeunermärchen (原題:Märchen der Weltliteratur), Diederichs, (1991) [1962], ISBN 3-424-00331-X 
  4. ^ Petzoldt, Leander, ed. (1994), Musikmärchen, Frankfurt am Main: Fischer Taschenbuch, pp. 124–, ISBN 3-596-12463-8 
  5. ^ Zaunert, Paul, ed. (1995), Die Zauberflöte. Märchen der europäischen Völker, Düsseldorf: Eugen Diederichs 
  6. ^ Various (2013), “Hörspiel WDR: Das wundersame Kästchen”, 40 Märchen um die Welt (Random House), ISBN 978-3-8983-0562-4 
  7. ^ Zeitschrift Märchenforum Nr. 57 – Vom Lachen und Weinen im Märchen, Lützelflüh, Czech: Mutabor-Verlag, (2013) 
  8. ^ ミュンスターのTheater in der Meerwiese公開劇 2016年3月1日閲覧。
  9. ^ Seidel, Marianne. “Textarbeit zum Romamärchen Die Erschaffung der Geige”. 2016年3月1日閲覧。
  10. ^ イェジィ・フィツォフスキ (再話)、内田 莉莎子 (訳),堀内 誠一 (画) 「魔法の箱」 『太陽の木の枝 ジプシーのむかしばなし』 福音館文庫、275–292頁、2002年。ISBN 978-4-8340-1883-7 
  11. ^ Borski, Lucia M. (translator) (1977), “The Magic Box”, Cricket 5: 1, 1625, https://books.google.com/books?id=1XxYAAAAYAAJ 
  12. ^ Groome, Francis Hindes (1899), Gypsy Folk Tales, pp. 131–132, https://books.google.com/books?id=ZTFCAAAAIAAJ&pg=PA132 
  13. ^ Tüpker, Rosemarie (2011), Musik im Märchen, Wiesbaden: Reichert Verlag, pp. 65, 69–, 73–, ISBN 978-3-8950-0839-9 
  14. ^ a b c d Liste der Einzelmotive und Märchentext, downloaded on 1 March 2016.
  15. ^ a b Tüpker, Rosemarie (2011), Musik im Märchen, Wiesbaden: Reichert Verlag, pp. 51, 53–57