ノート:相模川

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記事名称の(の前には、半角スペースを入れることになっていますので、勝手ながら記事を移動させていただきました。 秀の介 14:02 2003年11月13日 (UTC)

お手数おかけします。Falcosapiens 14:05 2003年11月13日 (UTC)


以前、荒川の重複回避をする際には荒川 (関東)荒川 (北陸)という形にしていました。できれば、河川名の重複回避法は統一しておいた方が良いと思います。

水系名を附けることにすると、荒川はどちらも[[荒川 (荒川水系)]]になってしまうのですが、かと言って地方名だと小規模な川でダブりが出てきそうです。どうすれば良いものでしょう。nnh 08:30 2003年11月14日 (UTC)

そうですね。かといって県名を列挙するのも冗長ですし・・・一級水系で名前が重複するのは荒川だけですし、むしろ荒川を例外としたほうがいいのかもしれません。Mizumono 08:45 2003年11月14日 (UTC)
諒解です。河川名は水系名で区別するのを基本とするということですね。荒川は仕様がないのでこのまま。
一級水系では荒川以外のダブりはありませんが、それ以外ではダブりが出てきそうですね。もっとも、二級水系や単独水系で、記事を書くような(記事が書けるような)ものはそんなにはないと思いますが。nnh

まずいものが見つかりました・・・那珂川なんですが、茨城県の一級河川と福岡県の二級河川で重複します。一級水系はもちろん記事にすべきですが、かといって福岡の那珂川も「「福岡市」」の歴史を語る上でははずせなさそうですし・・・どうしましょう?Mizumono 03:17 2003年11月18日 (UTC)

「相模川 (相模川水系)」という項目名、違和感あります。淀川水系にも同名の川があることはわかりますが、それならば「相模川」という項目の定義部分でそのことを記述すればよいのでは? リンクされることの圧倒的に多いであろうこの相模川水系の相模川の項目名を「相模川 (相模川水系)」としておくのはおかしいと思います。つまり、原則として一級水系を優先し、他水系や二級河川などで同名のものが出てきた場合にはそれに水系名や管理している都道府県名をつけると言うことです。唯一の例外は荒川ですね。ともに一級水系ですので「関東」「北陸」という言葉をつけて区別するしかないでしょう。平 誠 2004年9月28日 (火) 02:38 (UTC)[返信]

「ウィキプロジェクト 河川」のお知らせ[編集]

ウィキプロジェクト 河川を立ち上げました。河川の記事名についての議論はこちらでどうぞ。nnh 2005年2月26日 (土) 14:01 (UTC)[返信]

「相模川」への移動について[編集]

1年近く議論がストップしてますが、再提案します。

相模川 (相模川水系)の内容を相模川へ移すことを提案します。現在の相模川は曖昧さ回避ページとなってますが、曖昧さ回避の対象は淀川の支川(および力士の四股名)です。ウィキプロジェクト 河川にも書いてみたのですが、平等な曖昧さ回避とするのは原則として本川名(日本ならば水系名)同士がかぶった場合のみに限定すべきと考えます。

力士名はどちらかの川から取られたものでしょうから、それはその川の記事内からのリンクで十分と考えます。そうなると残るのは相模川 (淀川水系)だけであり、現在の「相模川 (相模川水系)」の内容の先頭に相模川 (淀川水系)へのリンクを入れる山手線方式が良いと思います(この場合は相模川相模川 (相模川水系)の履歴統合が必要です)。他に、相模川を「相模川 (曖昧さ回避)」へ移動し、「相模川」を一旦削除の上、相模川 (相模川水系)を「相模川」へ移動という方法も考えられると思います。

御意見お待ちしております。nnh 2005年8月21日 (日) 16:41 (UTC)[返信]

賛成です。具体的な方法はこの場合どちらでもいいですが、自分の好みでは後者でしょうか。しかしこだわりません。Kinori 2005年8月21日 (日) 20:33 (UTC)[返信]
私もどちらが良いか少し迷ったのですが。実際の作業としては(私は提案者なので出来ませんが)後者の方が簡単だったりします(ぼそ)。では、後者の方針で、リダイレクトの削除依頼に出すことにします。nnh 2005年9月11日 (日) 03:42 (UTC)[返信]

桂川の由来とひとつの源流、について[編集]

現行版のように桂川の名の由来を石割神社桂の神木とすること、並びに源流の一つを同地の御釜石と断言することについては疑問があります。出典山梨放送が執筆して日本財団が発行しているサイトのようで、一見Wikipedia:信頼できる情報源とも思われますが、そもそもの内容が不正確だと思われます。山梨放送に直接内容を問い合わせたところ、グループ会社の山梨日日新聞社の記者が石割山を取材した際に現地の案内板を見て書いた記事をそのまま援用しているとの事でした。案内板には宮司の署名もあり、言い伝えとして神社が公表するには(真偽はともかくとして)やむを得ませんが、それを全て史実としてWikipediaの出典とするには問題があると思われます。具体的には、まず山梨県の地誌の定番の甲斐国志を当たってみると、巻37冒頭から桂川の節が長々とあるのに対して[1]、石割神社の説明は巻71平野村天満宮に続いて「石割権現 北山ノ中腹ニアリ 大石高壱丈余長弐尺許中央ヨリ割レテ一刀両断セルカ如シ其上小社アリ祭礼三月九日参詣ノ者多シ」と僅かにあるだけで、桂の御神木については他にも一切記述がありません[2]。御神木の年輪は伐採してみないと分かりませんが、谷村陣屋[3]のあった都留市域をはじめ郡内随一の幹川である桂川の由来ともなっている御神木ならば、甲斐国志成立の時点で同書に記述されないのはおかしいと思われます。さらに言いますと、山中湖村の前身の山中村では桂川の名称は唱えておらず、以前は梁尻川と言っていました。山中湖から桂川が流れ出る吐水口の付近に魚を獲るためのヤナを仕掛けていて、その末(尻)という意味です。現在でも山中湖村字梁尻の地名を使っています。さらに忍野村域では横川富士吉田市域では大堰ノ川焼橋川などと言っていました[4]。さらに甲斐国志巻37新倉川では「・・・東流シテ焼橋川ニ入此川末ニ至ヲ桂川ト云・・・」とあり、焼橋川の下流で桂川と名称を変えると言っています[5]。現在の富士吉田市にも焼橋はありますが、その末(下流)には1875年に桂川由来の桂村が生まれ[6]、現在でも都留市東桂や南都留郡西桂町に名を引き継いでいます。の木は水気が多くて明るい所を好みますので、石割山の上部で大きく育っているのは不思議でかつ貴重ですが、しかし山中湖まで直線距離で2km以上離れている山(沢の下流では水が通常全く流れていない、後述)の奥の木が桂川の由来となるのは言い過ぎだと率直に思われます。郡内地方にも昔は桂の木が自生していたようですが、加工しやすい良木でかつ川沿いの伐採しやすい所によく生えるので、月江寺池の畔にもあったそうですが、殆ど全て伐採されてしまったそうです[7]。現在残っているのは、下吉田の小室浅間神社と石割神社、西桂町の小沼浅間神社にそれぞれ1本ずつの計3本だけで、全て神社の御神木です。岩佐忠雄著『北富士すその物語』第1巻桂川の起源によると、「・・・かつては東桂から明見村、鐘山へ続く流域には桂の大木が茂っており(中略)誰云うとなく桂川と名付けた」としてます[7]。つまり、流域に桂の木があったことを由来とする説です。また西桂町では甲斐叢記の「都留「つる(蔓葛)」を(かづら)「かつら」とも云うにつけて「桂」の字を借用いしならん。かかねば本郡の名義は山のつる(蔓葛)にとりしこと明かなり、然るを後人鶴の字に書換えて嘉名とせり(鶴郡の字も使われていた)」と都留郡のつるを由来とする説も紹介しています[6]諸々考えると、桂川の名の由来は諸説あり、定かではないとするのが良いと思われます。

・さらに最初に戻って石割神社の御釜石ですが、私実地で何度か見たことがありますが、水は通常滴っておりません。石に注連縄は巻いてあり、御神体のひとつとされているのは伺えますが、石のすぐ下側には登山道があり、水が流れて抉れた様子は皆無です。石割神社に降った雨水は一ノ砂川右俣に入り、下って一ノ砂川本流に合流すると思われます。本流上部では水が流れて貯水堰堤もありますし、石割山登山道入口の鳥居の所では3面コンクリート護岸もされて水は少し流れていますが、鳥居から300mほども下ると砂川の名の通り水は通常流れない枯れ沢となります。コンクリート護岸がなされた今日でさえ空沢なのですから、甲斐国志成立時の江戸時代に水が流れていないことは想像に難くないと思われます。現地情報が多くてWikipedia:検証可能性に難があるのは重々承知していますが、Googleストリートビューなども見てご確認頂きたいと思います。国道413号一之砂橋からの一ノ砂川下流方面山梨県道729号名称不詳橋からの一ノ砂川上流方面(この画角で空堀の延長方向がちょうど石割山です)、国道413号の湖畔近くの関口橋からの一ノ砂川下流方面です。地理院地図やGoogleマップでは河道が青く塗られていてさも水が流れているかのようですが、融雪時や大雨の時などを除いて通常水は全く流れていません。これでは桂川の源流の一つとも言い難いと思います。ちなみに『相模川流域誌』では「・・・神奈川県中央部を流れる相模川は、富士山北東麓の山中湖や忍野八海の富士山伏流水の湧水池を水源とし、・・・」としています(上巻1-1)。現地情報が多くて恐縮ですが、山中湖に流入している川は諏訪堀国道138号一之橋より上流方面)や大堀川国道413号大堀橋より下流方面)なども一ノ砂川同様に全て通常空堀です。これらも地図では青く塗られていますが、融雪時や雨後を除いて通常水は全く流れていません。従いまして、山中湖に流入する川(空堀)を源流や水源としては記さない方が良いと思われます。

以上、良い論文が見つけられず、Wikipedia:独自研究は載せないに抵触するきらいがないとは言えませんが、縷縷長文を述べさせて頂きました。しかしながら伝聞を典拠とするよりは相対的にいくらかでも良いかと思われますので、ページ本文は改訂させて頂きたいと思います。地元の方及び崇敬者の信仰を否定するものでは全くございません。あしからず、よろしくお願い致します。アッシュ・テ会話2022年8月20日 (土) 14:15 (UTC)[返信]

追記しますが、明治27年(1894年)発行の島崎博則著『山梨縣市郡村誌』では中野村誌(旧山中湖村)の山岳の項で、山伏峠に続いて「○石割山 東北ニアリ嶺上ヨリ北ハ桂村ニ属シ南ハ本村ニ属ス」としていて、神社の項にも石割神社および桂の木の記述はありません[8]。 河川の項で、「簗尻川 下流ハ横川又桂川ト云水勢急水質清水量平時弐尺ヨリ六尺ニ至ル源ヲ山中湖ヨリ起リ西北流シテ忍野村堺ニ至ル・・・」としています。 また忍野村誌の河川の項で「横川 上流中野村ニテハ梁尻川ト云下流ハ桂川ト云・・・」としています[9]
それから、蔓葛からの転記の説は甲斐国志の方が甲斐叢記[10]より早い出典でした。失念していました。
冒頭巻之一に「一都留郡 和名抄云豆留 残簡風土記云 或連葛 西限大田川東限早女坂南限阿曽谷北限武田牧阿 連葛トハ富士山ノ足北ヘ長ク延テ連綿タリ宜ク蔓葛然リ方言山の尾づる・尾崎ト云後人代フルニ鶴ノ字ヲ以テ嘉名ト為ス 又本郡ニ桂川有リ方言桂・葛ノ訓相混ジ遂ニ文字転ズ他ニモ此例アリ 大田川早女坂・武田牧共ニ未ダ考ラレズ阿曽谷ハ今明見村ニ湖アリ 曽ノ海ト云フ義ナルヘシ 肥後ニ阿蘇山有リ信州ニ浅間山有リ皆焼煙立昇ル恐ロシク浅マシキ義也ト云ヘルハ即チ富士浅間ヲ斥メ云ナルヘシ」とあります[11]

脚注

  1. ^ 甲斐国志巻37”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 国立国会図書館. p. 631. 2022年8月18日閲覧。 “桂川”
  2. ^ 甲斐国志巻71”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 国立国会図書館. p. 180. 2022年8月18日閲覧。 “石割権現”
  3. ^ 『甲斐国志』で桂川流域の編纂を担当した。
  4. ^ 『相模川流域誌』下巻6-4。堀内茂(著)、相模川流域誌編纂委員会(編)「富士吉田市のあらまし」『相模川流域誌』、国土交通省関東地方整備局京浜河川事務所、2010年3月。 
  5. ^ 甲斐国志巻37”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 国立国会図書館. p. 635. 2022年8月18日閲覧。 “新倉川”
  6. ^ a b 「桂」の語源”. 西桂町公式サイト. 西桂町. 2022年8月18日閲覧。
  7. ^ a b 岩佐忠雄『北富士すそのものがたり』 1巻、富士五湖史友会、1967年6月、82-85頁。"桂川の起源"。 
  8. ^ 島崎博則『山梨縣市郡村誌』山梨市郡村誌出版所、1894年10月、244-247頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765354/123  - 国立国会図書館
  9. ^ 島崎博則『山梨縣市郡村誌』山梨市郡村誌出版所、1894年10月、235頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765354/118。"横川"。  - 国立国会図書館
  10. ^ 甲斐志料刊行会(編)「甲斐叢記」『甲斐志料集成』第2巻、1933年3月、18頁“都留郡”  - 国立国会図書館
  11. ^ 松平定能『甲斐国志』甲陽図書刊行会、25頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764916/16。"都留郡"。  - 国立国会図書館

--アッシュ・テ会話2022年8月24日 (水) 16:50 (UTC)[返信]