ノート:場の空気

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アクセス禁止関連について[編集]

ロックアウトは、労働に関連した用語なので、削除しました。--神楽 2006年9月25日 (月) 19:23 (UTC)[返信]

場の空気と「参考書籍」[編集]

203.138.28.148さんが部分コメントアウトを行う上で「 参考文献を明示して下さい。何か学術的論拠があるのか/ないのか、これでは分かりません。 」と述べられていますが…小生としては、ただただ斯様なコメントが出たことに驚くばかりです。というのも、本稿を記述するにあたり「一般常識」の範疇で記述したためです。

おせっかいとは知りつつも口出しいたします。Wikipedia:ウィキペディアは何でないか 1-3-5項によれば、ここは個人の研究成果を発表する場所ではありません。極端な話、あなたが「一般常識」と思っていても、それが本あるいは Web に書かれていなければ Wikipedia には書いてはいけないのです。このような曖昧な概念について説明するときは混乱する可能性があるので、なおさら慎重になる必要があるでしょう。「国語辞典を読めばわかる」とおっしゃるのでしたら、国語辞典をあなたなりに要約した文章ではなく、国語辞典の該当部分を直接引用してください。あるいは小説家などが「場の空気」という表現を使っている箇所を引用してもいいでしょう。そうすることにより「場の空気」という語法の実際の用例に対して分析的な文章を書くことができます。つまらないと思われるかもしれませんが、Wikipedia はいろいろな所に書かれている知識を集積するための場所であって、まだ知られていない知識・理論を新しく構築する場所ではないのです。失礼しました。euske 2006年11月10日 (金) 04:36 (UTC)[返信]

コメントアウトを被った部分の論拠は、ほぼ全て各々の項目中に設けたリンク先を読んで頂くことでご理解頂けるものと考えておりました。しかし203.138.28.148さんは「分かりません」とおっしゃいます、参考書籍を明示して欲しいとまでおっしゃられています。逆に小生としては、コメントアウトされた部分の記述内容は、全て一般常識や、その周辺概念を収拾して列記してあるに過ぎず、特定の書籍を論拠として記述した訳ではありません。しいていえば国語辞典現代用語の基礎知識のような辞典において、ソーシャルスキル(→社会技能)の説明中や、あるいはアスペルガー症候群の説明中などから導き出される概念を、場の空気という記事の中で「どう絡むのか」を含めて軽く触れているに過ぎません。知の過程からすれば「(辞書の)逆引き」のようなやり方ですが、Wikipediaを含むWikiスタイルでは項目へのリンクを設けることで、更に詳しい専門的な記事が簡単に読めるため、斯様な記述をした次第です。

もし、コメントアウトされた部分に関して学術的見地から妥当性があるかどうかを判断したいのであれば、各々の専門書籍を紐解くことを奨めます。例えば「ソーシャルスキル」と「場の空気」の関連性が知りたければ「ソーシャルスキル」に関して記述された書籍を、「アスペルガー症候群」と「場の空気」の関係性を理解したいのであれば「アスペルガー症候群」に関して記述された書籍を読んで欲しいと思います。そこまでいかないまでも、せめて文中リンクを開いて頂きたく思います。

このため203.138.28.148さんのコメントアウトは、妥当性の無い行為であると思います。もし暫くして203.138.28.148さんから明確なお返事、または第三者からの妥当なご意見が無い場合は、コメントアウト解除も考えております。悪しからずご了承下さい。--夜飛 2006年10月10日 (火) 08:30 (UTC)[返信]

コメントアウトを解除しましたが、全体的にエッセイ、個人的な感慨に近く、文章の推敲が望まれると思われます。Mishika 2006年10月10日 (火) 08:37 (UTC)[返信]
了解です。小生としても「場の空気」という概念に絡んで小生自身が関連すると認識している事象に関して記述しているに過ぎません。他にも関連する事象があるかも知れませんし、あるいは関連のさせ方に難のある記述があるかもしれませんし。また小生自身が「端的過ぎて説明が等閑になるよりも、冗長となるを厭わない」という凶状持ち(ヲイ)でもあるため、推敲や、さらにはより適切にまとめられる事は多いに歓迎するところであります。--夜飛 2006年10月10日 (火) 10:06 (UTC)[返信]

そもそもこのエントリは必要なのか[編集]

「場の空気」が百科事典で説明すべき項目として適切なのかどうか疑問です。「場の空気」という表現が実際に精神医学などで確立された用語として使われているならともかく、ウィキペディアは一般的な語法を説明するところではないはずです (Wikipedia:ウィキペディアは何でないか)。個人的には、ぼくは「場の空気」という表現がなにを指しているのかよくわかりません。euske 2006年10月11日 (水) 22:45 (UTC)[返信]

要らないと思います。--PeachLover ももがすき。 2006年10月12日 (木) 00:32 (UTC)[返信]
(コメント)小生自身がだいぶ増量したから…という訳でもない(いや、実際はどうなんだろ)のですが、如何な俗語というか一般語の範疇にあるとはいえ、兎角「和」をもって尊ぶという日本人論にもからみ、日本語Wikipediaならでこそ…の記事かと思われ、また在って困る項目ではないと考えています。「解らないことだからこそ、辞書でひいてでも知りたい」という欲求=需要があると考えています。
ぶっちゃけ小生も、興に乗ったら大概「和」を乱しかねない性分であり、また「場の空気」というのを概念としてではなく感覚としては理解しかねる所もあるだけに、「実は良く判らない」のかもしれません。それだけに感覚ではなく理知的にこれを突き詰めたいと常々思う所があって斯様な増量と、他の項へのリンクという形に走りました。小生としては存続させ、ソーシャルスキル(=社会技能)という観点に絡み、社会学社会心理学の分野から、より広義には社会的動物である人間という存在の哲学的解析の方面から、詳しい記述をする余地はあると思いますし、またそのような発展を期待しています。--夜飛 2006年10月12日 (木) 08:32 (UTC)[返信]
無理に削除依頼を出すほどのことではないとも思っています。ですから現状でよいのではないかと。--PeachLover ももがすき。 2006年10月12日 (木) 09:20 (UTC)[返信]
失礼を承知で申します。あらためて「場の空気」と姉妹ページ(?)のような「暗黙のルール」を見直してみましたが、個人的な感覚に立脚した学説を展開しているだけのように見えます。多くの言明には具体性を欠く曖昧な用語 (「動向」、「傾向」、「大きな問題」など) が使われており、第三者が客観的に批評したり改良したりすることが難しくなっています。また、Wikipediaには文献の出典を示すべし、という規則がありますが、これらの文章のどこまでが文献によって検証可能でしょうか? 日本独特の文化を記述しようという試みは素晴しいと思いますが、たとえば「場の空気」を "atomosphere of the field" などと英訳してみても意味が通りません。新しい項目をつくる場合、その名前のひとつの目安として「他言語に翻訳できるかどうか」があると思います。「日本人の集団行動における特徴」などのような、より曖昧さの少ないタイトルにするほうが有意義な内容になるのではないでしょうか。euske 2006年11月10日 (金) 04:14 (UTC)[返信]
学説というよりも、小生としては「場の空気」に絡めて複数の概念を逆引きしたに過ぎません。故に学術的検証はリンク先の記事をもって行って頂くという形になると思います。ご指摘の曖昧性を含む語は、「それらが一般社会でどう作用するか」を概略的に説明してるだけに過ぎませんので、より詳しい情報は各々の章に設けられたリンクを辿っていただければと考えております。
なお翻訳性の維持という面は非常に興味深い事だと思います。ただ「場の空気」となると、言葉としてはひとまとまりの慣用句や形容詞・比喩の一種であり、単語に分解して直訳ないし単純な意訳しても意味が通らない事甚だしい種類の概念かと思います。小生は英語にはとんと疎いのですが、暗黙知を良しとしない米社会ないし米語の範疇(もちろん、英語にも)に該当する概念がないのかもしれません。
なお日本語版Wikipediaは「日本のWikipedia」ではなく「日本語のWikipedia(日本語で記述されたWikipedia)」であるため、Wikipedia:記事名の付け方と言うガイドライン草案にて、日本語でそれ一意の表現にて記事名を表す必要があるため、大概の人に言ってもぽかんとされてしまうような記事名称というのも賛同いたしかねます。英語版Wikipediaであれば「日本人の集団における暗黙知的決め事(ルールないしマナー)」のような言葉の直訳を記事名とする事に何ら支障は無い(日本人論の一種)のかもしれませんが。
ただ、日本人集団に限らず、ルールやマナーといった明文化された書籍などの情報があるものにおいても、それらの情報を知らない者から見たら、それはやはり「場の空気」同様の曖昧模糊とした「その場を支配する何か」と見えると思います。また古い社会では日本だけに限らず、類似する概念が存在している可能性も考えられ、単に日本人論に収斂させてしまうべき事柄では無いかもしれません(→島国#島国根性)。
いずれにしても本項は小生の実験的試みの延長で増量されたとは言え、その各々で逆引きされた事象は、理知的な研究がなされている分野であり、またそれらが関連してくる事は明らかであると考えています。ただ…小生が過去に読んだ書籍のどれに本項が立脚しているかと問われると、『スポック博士の育児書』や『家庭の医学(正式名失念の複数書籍)』から『マズローの心理学』・『(中公新書辺りの)犯罪心理学』や『(同)児童心理』辺りがボロボロ出てくるばっかりで、具体的にどの本に基くかに関しては答えに窮する部分ではあるんですけどね…そのいずれにも確かそれらを肯定する材料が見出せるはずなだけに(爆言)。--夜飛 2006年11月10日 (金) 09:22 (UTC)[返信]
「小生としては…思います」「…かもしれません」という思考の羅列がそのまま記事になっている気がいたします。まがりなりにも百科事典のようなものを作ろうとしている際に、誰もが自分の思考を証拠の引用なしにそのまま記事にしてしまっては、収拾がつかなくなるのではないかと危惧する次第です。しかし、これ以上議論してもあまり進展しそうにないので、深入りしません。どうも失礼しました。euske 2006年11月25日 (土) 02:10 (UTC)[返信]

精神医学では知りませんが、一方、日本人を語る上で重要な概念であり、山本七平の『「空気」の研究』という本もあるし、それなりに学術的にも意味の確立している語ではないでしょうか。(夜飛さんには、和の文化もかいて欲しいなあ)--壽日 2006年10月25日 (水) 13:09 (UTC)[返信]

うゎお、ご指名とは照れますがな。ただ「和の文化」ともなると日本人論から日本建築茶の湯武士道日本史・社会科学における日本論(文化比較論?)とか、えらいコトになりそうだし、また人文から研究論文まで幅広い引用も求められそうで…小生みたいな趣味の「なんちゃって論者」には手におえないかと("orz 永遠に無理かも)。 --夜飛 2006年10月26日 (木) 09:36 (UTC)[返信]


暗黙の了解で一般論の範疇とはどういう意味ですか?[編集]

User:yatobiさんは記事を読みやすく整理して下さることはありがたいとは思っていますが、場の空気#コミュニティにおける場の空気で「一概に「場の空気」といっても、コミュニティによって様々な「約束事」があるのが実情である。{{要出典}}」

「近年ではインターネットの発達に伴い、従来には無かった形式の様々なコミュニティが誕生している。しかしこれらのコミュニティはネチケットなどの経験的に培われたルールの他に、やはり不文律的な各コミュニティごとの雰囲気を持つのが一般的である。{{要出典}} 」

で『「暗黙の了解」で一般論の範疇』だからの要出典テンプレート外したという意味がわからないのですが、どういうことか根拠をもって説明してもらえませんか? 何が一般論であり、何をもってそれを一般論の根拠とするのか説明があるなら納得できるかも知れないのですが。 hsz 2007年3月6日 (火) 13:14 (UTC)[返信]

単純に一般論として、各々のコミュニティには各々の「(明文化されていない)暗黙のルール」が存在するということです。これはコミュニティの種類にもよるでしょうが、実に多種多様な不文的ルールが方々に散見されます。この問題はWikipedia:独自の調査に示された「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でも、その正確性を簡単に検証できる解説を行う記事」の範疇に在る検証可能性の面から出典を必ずしも求められないケースだと考えます。よって要出典をコメントアウトしました。
ただ、hszさんが今ここでこうして小生の編集に対してご意見を述べられるに至るまでに、どのようなコミュニティに関係してきたかは小生の窺い知ることの出来る範疇外のことであり、よって共通認識として具体例を挙げることは出来ない部分でもあると考えます。また出典は小生の経験上や小生の認識に幾らかの影響を与えたフランク・G・ゴ-ブル著『マズローの心理学』(→アブラハム・マズロー)などの社会心理学方面の書籍、更には長年の習慣ともなっている「新聞の記事などをよく読むこと」など多方面に渡ってしまって、逆に「コレとコレの○○ページ」などの具体的な形で示せない部分でもあります。
まあ正直な所として「ヘッポコな小生が思い至って、体験としても情報としても未だそれを否定しうる反証が得られず、事実その通りだとしか認識しようがない所などは、一般常識の範疇だろうな」という判断をしてなくもないのですが、またコミュニティが性質的に固有の価値観を保有していることがコミュニティの存在理由にもなっているとも考えれば、逆に固有の価値観から場の空気や経験則に基づく暗黙知的なルールが形成されない訳がないともいえる訳ですし。
と…ちと体調が緩いもんでダラダラと書いてしまいましたが、コミュニティにはコミュニティに固有の約束事みたいなもんが存在すると言うことは、『指輪物語』のホビット庄の描写から、社会心理学関係の書籍に至るまで、広域に見出されるとだけ申しておきましょう。それを一般論的で常識的なものと評することに関しては、小生は些かの躊躇も覚えません。--夜飛 2007年3月6日 (火) 14:05 (UTC)[返信]
「各々のコミュニティには暗黙のルールが存在することが一般論である」という論理を持ち出していることが不可解で、具体的に何を言いたいのかわかりかねますが、「実情である」「一般的である」と断言することが問題だと思います。「論理的にこれは正しい」と言い切ることができるでしょうか? 現状ではあの文では、ミスリードになりかねず、どこのコミュニティでもいつのまにか「○○することは暗黙の了解だから好き勝手に悪いことをしても良い」という曲解に繋がるおそれがあります。例えば「このコミュニティでは日本人を侮辱し、日本人に大金を支払わせ、日本人には利用サービスを制限するのは暗黙の了解だ」などと宣言して人に迷惑をかけるための口実に使われる恐れがあるのではと懸念しています。そのあたり、懸念しているので、要出典テンプレートを貼り付けたいと考えているのです。hsz 2007年3月6日 (火) 16:17 (UTC)[返信]
まず…漏電中に付き、言葉が汚いのはご容赦願いたい。
本題としては、小生の述べているのは理論ではなく、言葉の意味の広がりを捉えれば、当然のことかと存じますが…まずは「コミュニティ」の意味を辞書などでご確認ください。感情や価値観と言う無形かつ必ずしも「その全てを言葉に変換できない」性質のものを属する個人の集団で共有するのがコミュニティです。そういったものに立脚するのがコミュニティであれば、自ずと不文律的な行動の様式が発生し、それを「暗黙のルール」だと述べたに過ぎず、論理的に正しいかどうかは、関係のないことです。故にミスリード云々ということも関係ありません。
要はそういったコミュニティの性質を、特定コミュニティに対する批判めいた記述で一々濁したり論点をかき回したりするのではなく、純粋かつ明確に言及することがWikipediaの主柱に於ける中立性であり、批判的に成るあまりそれを否定することを文中に盛り込みたがることは中立と言う「記述者として取るべき立場」から逸脱することかと考えます。
なお「迷惑をかける口実に使われる恐れ」と言うのも意味不明です。だらかなんだと言うのでしょう。そんな反社会的な腐れコミュニティの在り様は腐れコミュニティに属する問題であり、それは如何なる錦の御旗を作っても、クソが掲げりゃそれはクソの旗であり、その旗自身には咎はないと考えます。
ともあれ、自身の反社会的コミュニティに対する懸念を理由に、コミュニティ一般の性質を記述してある部分を否定しないで下さいまし。--夜飛 2007年3月7日 (水) 11:11 (UTC)[返信]
コミュニティの意味ですが、

http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A5%B3%A5%DF%A5%E5%A5%CB%A5%C6%A5%A3&search_history=&kind=&kwassist=0&jn.x=36&jn.y=17&jn=%B9%F1%B8%EC&mode=0

(1)人々が共同体意識を持って共同生活を営む一定の地域,およびその人々の集団。地域社会。共同体。 (2)転じて,インターネット上で,共通の関心をもちメッセージのやりとりを行う人々の集まり。 (3)アメリカの社会学者マッキーバー(R. M. MacIver)が定式化した社会類型の一。血縁・地縁など自然的結合により共同生活を営む社会集団。

とありますね。 夜飛さんの主張する「感情や価値観と言う無形かつ必ずしも「その全てを言葉に変換できない」性質のものを属する個人の集団で共有するのがコミュニティです。」とは定義が異なるものがありますね。とくに、インターネットとなるとかなり異なってくるでしょう。「純粋かつ明確に言及することがWikipediaの主柱に於ける中立性」と言うならば、やはり説得力ある根拠が必要でしょう。Wikipediaというものは、嘘を書くものではないので、Wikipediaのルールから、誤解を与える表現は避けるべきでしょう。ゆえにミスリードに繋がる記事はミスリードにならないよう訂正すべきでしょう。論理的に正しいかどうかは関係ないと言い切っているようですが、確かに、Wikipediaでは論理的に正しいかどうかを求められないこともありますが、明らかに誤解を生む表現があるならば、正確さを求めるべきでしょう。ミスリードされる恐れについても「だらかなんだと言うのでしょう。」と主張しているようですが、それは、読者に事実誤認をさせても構わないという主張にも見えなくもありません。このままでは、全てのコミュニティ=改竄や情報漏洩される恐れがないコミュニティと早合点させるような記事に見える恐れがあるため、読者に誤解を与えないために、最低限の訂正を加えるべきだと私は考えています。それに、「腐れコミュニティに属している悪い」という考えで短絡的に解決しようとしているようですが、それでそのコミュニティに関わることをやめるだけでは解決できないこともあるでしょう。たとえば、このWikipediaというコミュニティが、夜飛さんの言う腐れコミュニティに成り下がったら、日本という巨大なコミュニティが戦前の全体主義時代の日本に成り下がりそうになったらあなたはどうしますか? 草食動物のように逃げるだけですか? 後者の場合はそれも得策かも知れません。しかし、そうなる前に、政治的影響力があるなら阻止するでしょうし、力が無ければ草の根的な活動を展開することもあるでしょう。もし万が一、日本という国が悪い方向に進み、独裁者に乗っ取られてしまいそうになったとき、「場の空気を読め」などと言っている余裕も、それを鵜呑みにする余裕もありません。このように、現在の場の空気という記事は曲解されやすい部分があるので、意味を悪用されることを懸念しているのです。ゆえに、状況によっては、この場の空気をWikipediaの記事として相応しくないものとして削除依頼せざるを得ないともいえるのです。hsz 2007年3月7日 (水) 16:50 (UTC)[返信]

すみません、hszさんの引用で挙げられた辞書では「共同体意識」という、個人の感情や価値観を内包するより上位の精神観念が出ちゃってますね…第一義に。小生の参照した学研のカタカナ新語辞典では第二義に一定の地域に居住し共通の感情をもつ人々の集団と示されており、広辞苑では第一義に一定の地域に居住し、共属感情を持つ人々の集団とあり、感情は個々が有する価値観に影響される訳ですが。
と言うよりも、コミュニティ内に固有の決まり事が存在することが嘘だという論拠は何ですか?
また、十字軍が虐殺を行ったからといって聖書を書いた奴に咎があるでしょうや?
色々と述べられているようですが、まずご自身が「ミスリードされる恐れ」と称して検閲を行い論説を特定方向に誘導しようとしていることを自覚してください。世の中には鼻をつままれ引っ張られれば何処まででも引っ張られていくとんでもないバカもいれば、鼻をつままれる前に「私の鼻はつまんで引っ張るためのモノではない」と拒否する人もいて、千差万別です。hszさんのやっていることは、ありもしない仮定の話を持ち出して鼻をつまんで引っ張ろうとしているようにしか見えません。残念ながら小生の鼻はhszさんにつままれるために付いているのではないし、また例えば小生が「悪意を持って」他人の鼻をつまもうとしても、それを許すほどの覿面なバカはそうザラに居るとも思いません。もっとも、小生としても鼻汁付けられるかも知れないのに人様の鼻をつまんで引っ張る趣味なんぞ在りませんが。
なお小生としては2007年3月7日 (水) 01:24版の表現でも構いません。(漏電中かつ食事中に付き、即興での返事で申し訳ありません。後でもう少し落ち着いてお返事するかもしれません。)--夜飛 2007年3月8日 (木) 03:47 (UTC)[返信]
少なくとも、インターネット上のコミュニティは「居住するもの」でも「場所」でもないと考えています。
「コミュニティ内に固有の決まり事が存在することが嘘」だとまでは書いた覚えはありません。コミュニティ内に固有の決まり事はあるでしょう、しかしごく一部の限られた人にしか通じないマイナーな暗黙の了解は、インターネットでは受け入れられない世界でしょう。民主主義に反し、「むら社会」とよく揶揄されるものに似ており、閉鎖的な色が濃いのですからね。まさにインターネットに反するものだと感じますね。特定のコミュニティの暗黙のルールや場の空気は万人には通じないわけですから。インターネットにはインターネット固有のルールや礼儀はありますが、かといって、「場の空気が読めないから閉め出される」ということはありません。不思議と落ち着いてくるものです。インターネットには民主主義の自然回復力みたいなものがありますからね。脱線したことを長々と書きましたが、今のところ、現在の記事でとくに編集したくなるところはなくなっていますが、またいつ、誤解を招くような記事が加筆されるのか懸念していたために、書かせて貰いました。それと、夜飛さんの意見は、言ってしまうと、抽象的にみえてわかりにくいと感じます。それはそれで良いこともあるかもしれませんが、夜飛さんの主張だけでは、私には何のためにこの「場の空気」という記事があるのかまだ理解できません。hsz 2007年3月8日 (木) 16:21 (UTC)[返信]
社会論自体が社会の現象を抽象化して共通する要素を見出すと言う性質がある上に、また小生とhszさんの間に実体験上における共通認識としての接点が在る訳でもないために抽象化された話以上には成り得ない…のかもしれません。インターネットコミュニティは特に物理的な距離に関わり無く価値観で連結している傾向が強い(「同好の士」とかで)し、また技術的な仕組み上で相容れない相手をブロックしたりマスクしたりする方法もあるだけに、そう見えるのかも…とか徒然に思ったり。何のためにと問われれば、「それは人の知的好奇心の用を足すために」としか言いようが無いかも。まだ漏電中なんで纏まり無くてすみません。ではでは。--夜飛 2007年3月8日 (木) 16:36 (UTC)[返信]

出典を明記しつつ投稿せよ[編集]

Wikipedia:独自研究は載せないはウィキペディア日本語版の公式な方針です。あくまで出典を明記しつつ、投稿しなさい。 すでに何度も要出典タグを添付して警告しています。要出典タグを無視して勝手に掲載してはいけません。

  • 「もとは漫才やコントなどをやる芸人が使う業界用語である」(←「批評家○○○○の著書『△△△』によれば、場の空気とはもとは芸人の用語である」などと、指摘している文献を明示すれば、掲載可能。それが明示できなければやはり却下)。

Wikipediaでは信用できる文献に載せられている情報を載せるのが原則だ。放送番組も、確認のしようのない場合は、検証不能として却下されても仕方ない。が、「○○○○年○月○日..時、××系放送局(●●地域では×チャンネル)で放送された『●●●●』という番組において」芸人の●●が「場の空気」と発言していた、と放送日時を厳密に特定し、それをref tagで明記すれば、他のウィキペディアンが温情で見逃してくれて掲載されつづけることは多い。どうしても掲載したければ、そうせよ。明示しない場合は、やはり却下だ。

  • 「日本では政治学や社会学で文化的後進性の表れとして頻繁に批判される。」
  • 「同調圧力の強い社会では規範とされる傾向があり、日本では政治学や社会学で文化的後進性の表れとして頻繁に批判される。」
そもそも、そのような主張があるならば、出典を明記すべき。「社会学者の○○○○著『△△△△』××出版×××年 p.○○-○○によれば、、、」 のように明記せよ。出典の明示がない現段階では、主張があること自体がそもそも認められないので、却下。このような主張は、仮にそのような主張が誰かによって実際になされていたとしても、議論にあたる文章なので、冒頭部に記載するべきことではない。掲載するとしても、記事の後半の部分だ。


明らかに間違っている箇所。

  • 「この事を知らない下の世代に伝わるにつれ、段々と意味を勘違いして使用されるようになったと思われる。」
「下の世代」とはどういうことだ?「下の世代」とは通常、若年層のことだろう? 山本七平、福田健らは、松本人志よりもはるかに「上の世代」だ。支離滅裂な誤謬を持ち込むべからず。


「総括」という節を末尾に書き込んでいる者がいるが、そのような節は認められない。却下だ。末尾に「総括」とすることで、投稿者の個人的感情で概念自体を全否定したいようだが、そのようなことをしてはいけない。そもそもWikipediaでは「総括」という節立ては許されない。

過去の編集の履歴から見て、出典も明示せず投稿しているIPユーザ(210.89.107.127など、アニメファンか?)は、その粘着的行動からして、もしかしたら過去に「場の空気を読め」などと言われてつらい思いをしたことがあるのかも知れない(そうでなかったら、失礼)。だが、仮にそうだとしても、反発心から、Wikipediaにおいて「総括。場の空気など存在しない」などと、個人的な感情を書きこんではいけない。Wikipediaは残念ながらそのような場ではない。感情や意見を表明したい場合は、自分のブログで思う存分やりなさい。Wikipediaでは個人的な感情は控えて、出典がある情報だけを、原文の主旨に忠実に書きなさい。

もしも「場の空気を読め」と誰かに言われてつらい思いをした者が、たまたまこの記事を読んだら、以下のいずれかをすれば良いだろう。

1.「場の空気」に関する書物を積極的に読んで、自分の未熟な部分を少しづつでも改善する。自分を変える。改善すれば、言われなくなる。
2.「場の空気を読め!」と乱暴な口調で言うような人からは、自分から遠ざかる。
3. 自分に自閉症の傾向があり、どう努力しても自分の能力に改善の余地が無さそうなら、いっそ、そんなつらい思い出は忘れるように努力する。
(この記事「場の空気」も読まないようにする。この記事を読むたびに、つらい思い出がよみがえるだけだろう? 止めたほうが懸命だ)

いずれにせよ、Wikipediaの記事に出典を明記できない感情的な投稿をして、記事を捻じ曲げたり、事実関係を捻じ曲げることで、自分の過去の傷を癒そうとしたり、今の自分の気持ちを救おうとするのは、お門違いだ。止めなさい。

 ----Cavosit 2007年6月23日 (土) 00:52 (UTC)[返信]

独自研究は載せないもそうですが、中立的な観点もウィキペディアの公式な方針です。出典さえあれば何を書いてもいい訳ではありません。よって、コメントアウトした箇所を削除し、内藤誼人の主張と思われる箇所の分量を減らしました。Wikipedia:ウィキペディアは何でないかもあわせてご覧になることをお勧めします。121.93.45.207 2007年6月23日 (土) 06:33 (UTC)[返信]

(2007年6月23日 (土) 05:00~05:44)山本七平、冷泉彰彦の説の出典つきの加筆について。 いいですね。このような出典つきの情報で記事を構築してゆくべきです。 --Cavosit 2007年6月24日 (日) 01:54 (UTC)[返信]

中立的な観点について[編集]

私については心配しなくて結構。私は最初から当然意識している。いつでも意識しているよ。ただ、自分で資料を見つけたり手に入れた順に、出典付きで掲載しているので、ある時点で切り取ると、読み方によっては一見偏ったようにも見えてしまうだけだ。


この記事の中立的な書き方

いろいろな立場からの情報を掲載しておくのが中立的だ。この「場の空気」に関しても、人間誰でも、いろいろな立場になりうる。以下の場合分けを見ていただきたい。

X. 自分のほうが 場の空気を良く読めていて、目の前の誰かがうまく読めていない
Y. 自分のほうが 場の空気をうまく読めていなくて、まわりの人らのほうが場の空気を良く読んでいると思われる


P. 自分が 集団内で多数派になっている
Q. 自分が 集団内で少数派になっている


L. 自分自身が(少数派でも)場の空気を作り出している割合が多い。(自分がムードメーカーになっている)
M. 他者が場の空気を作りだしている割合が多く、その影響を受けている。(他者がムードメーカー)


XあるいはY、PあるいはQ、LあるいはMになるかは、人間誰でも、状況次第だ。あなたでも私でも。固定的に考えるべきではないだろう。「場の空気」という概念を、固定的に、優越感を伴って見るべきでも、被害妄想的に観るべきでもなかろう。状況は入れ替わる。新入生や新入社員は数年たつうちに上級生や中堅社員になってゆく。転校したり、卒業したり、転社すれば、また最初からやり直しだ。1日の内でもコロコロ立場は変わる。社内で営業部長で空気を作りだしている人も、顧客先に出向けば「お客様」の顔色をうかがうことが多い存在になる。「場の空気」を読むことが比較的上手な人でも、普段接しない集団と接したら、とたんに「場の空気の読めない人」になりうる。立場や性別や職業や経済状況が大きく異なる人ばかりの集団と接すると、空気は非常に読みにくいだろう? 極端な例だと、平均的な日本人は、イギリスの貴族の集団に接したら、眼くばせの意味も、状況状況の意味もさっぱり理解できなくて、非常に苦労するのでは? )

X,Y,P,Q、それぞれの状況での、状況の見え方や、どのように身を処する方法があるかということに関する情報は、結構重要だ。もし誰か著者が述べていたら、是非記載しておくべきだろう。山本七平の説というのは、(主に戦時下で)Qの立場になった時に、状況がどのように見えるか、どのような困難が生じうるか、ということを指摘している点で、とても有益だ。さらに記事を中立的にしたかったら、逆にPの場合はどのように見えるか、ということを述べている著者を見つけて、それを出典つきで掲載する、と良い。

だから、「場の空気を読めない人に対してどのように接するか」のセクション(内藤の出典付きの箇所)を121.93.45.207さんが削ったことについは、間違っているでしょう。121.93.45.207さんが削ってしまった「場の空気を読んだうえでどのように振舞うか」のセクションは、おおむねYの状況の対処のしかたが書かれている。 それに対して「場の空気を読めない人に対してどのように接するか」のセクションは、Xの状況の対処のしかたが書かれていた。だから、このセクションを削ってしまうと、Yよりの情報ばかりが増えて、記事の中立性が失われてしまう。 よって「場の空気を読めない人に対してどのように接するか」については、とりあえず復帰させてようと思う。(別に私が内藤の主張に特にこだわっているわけではなくて、私の眼に入る範囲では、Xの状況の対処の仕方について、たまたま内藤だけが述べていたというだけなので、Xの状況の対処のしかたについてまともなことを述べている書籍が他にあったら、それを加筆したり、場合によってはそれに差し替えていただいても結構だ)


大局的な中立性

そもそもこの「場の空気」という概念に対して、肯定的、否定的な感じ方、いろいろあるだろう。いろいろな感じ方、感情があるのは当然のことだ。

L. 「場の空気」「他者の気持ち」 に適応したい、響きあいたい、好きだ、いいものだ。(いわゆる)"大人" になりたい 等々
M. 「場の空気」「他者の気持ち」 から自由になりたい。煩わしい、嫌いだ、恐ろしい。 自分の伸び伸びとした子供のような良さを失いたくない 等々

L.Mいずれか一方向の感情を持ってしまう人もいれば、ひとりの人の中にL,Mの感情が同時に存在して複雑な感情を醸し出している場合も多かろう。 記事単体として中立性を保つならば、両方の観点が入っていいだろう。ただ、一般的にWikipediaでは、ある項目・概念が記事として立てられると、前半7~9割ほどは、その概念に関して肯定的な文章が、後半1~3割が批判的な文章になるとバランスが良いように感じるが、どうだろう? 山本七平の批判的な説が後半に少量掲載されているのは、その点良いことだと思う。(この、中立性を保つための加筆が、同時に、出典情報を伴っている必要があることには皆、今後も注意されたい)

それと、Wikipediaでは、必ずしも記事単体で中立性がうまく保たれているわけではなくて、相反する項目どうしがリンクしあっていることで全体的な中立性が実現している場合もある。だから、この記事でも、反対概念、あるいは一見すると相反するような概念、を関連項目に加筆しておいてやることは有益でしょう。例えば、この「場の空気」という項目ならば、関連項目に「自由」という項目などを加筆して(あくまで一例)、それをたどればまったく反対の出発点からも発想できる、と示唆するとよいでしょう。  ---Cavosit 2007年6月24日 (日) 01:54 (UTC)[返信]

「場の空気を読めない人に対してどのように接するか」を削ったのは、一方的な主張というよりも、独立した章立てであることへの違和感と、単なる知識ベースにも思えたからです。軽率だったかも知れませんが。独立した章としてでなく「場の空気を読んだうえでどのように振舞うか」と並列して書かれて、かつ簡潔にまとまっていれば削ることもなかったかと思います。
あと、アルコールハラスメント関連の項目も抜けたままですし、山本七平が掲げた「水」(盛り上がってきた雰囲気に水を差すの「水」)の説明も必要かな。121.93.45.207 2007年6月24日 (日) 02:22 (UTC)[返信]
「少数派/多数派」の問題や関連項目の自由は蛇足ないし記述者主観に於ける非NPOV問題を含みそうです。少数派多数派に拠らず、場の空気に支配性を示す存在としてカリスマがあり、結果としてそのカリスマに大多数がなびいたとしても、母数は「カリスマ<大衆」でしかないと考えられます。一方の「自由」に関しては、「場の空気に従う自由/従わない自由」という意味であれば、社会性の範疇において「パンツを穿く自由/穿かない自由」や「選挙権を行使する自由/放棄する自由」など、その類型があまりに多く曖昧で、敢えて書くことで「場の空気は人の自由を阻害するものだ」(=「自由な人間の行動を阻害するので、否定する」)という主張または意思表明をしていると考えられます。パンツが股間のナニの自由なブラ付き運動や興奮時の伸張を阻害するからといってパンツを否定しても詮無いことである(漏電中につき猥褻失敬)と同様に、社会の同調圧力が主体性の弱い者に対して精神的重圧になるからといって場の空気に自由の阻害要素としての責を問うのも詮無いことかと考えます…その場合は無言の同調圧力以前に、明確な威迫行為から自身の価値観念に至るまで、様々な社会的圧力ないし要因が彼(主体性の弱い者)の行動の自由を阻害し得ります故。所定の資料(書籍)のみに拠れば、その書籍のカラー(偏重)が色濃く出てしまうというのはご指摘のとおりですが、こと偏重が見られる所定資料のみによって記述されることには一層の慎重性を期すべきかと。過渡期的に偏重を容認するのではなく、まず骨格となる部分を広く求め、その末端に各々の資料からの情報を接ぐべきかと存じます。--夜飛/ 2007年6月24日 (日) 05:25 (UTC)[返信]

安倍晋三の件[編集]

>当時若い女性の間で「空気読めない」の略として使われていた言葉KYが安倍を揶揄する言葉として一般にも流行し、2007年の新語・流行語大賞にもノミネートされた。

若い女性の間でという部分と安倍を揶揄する言葉として流行という部分は出典はあるのか? KYは安倍と関係なく流行したんだがな。まぁそれについてはいちいちこちらも主張するつもりもないが。 その文章を付け加えたいのであれば「安倍を揶揄する言葉として流行した」ということの出典を明記するように。 出典の明記検証可能性独自研究は載せないを参照するように。

それと、wikipediaに

>完全にタイミングを逸した辞任に

>安倍に終始好意的だった産経新聞(官邸崩壊)ですら

のような個人の主観的な意見は載せないように。 ここは百科事典だ。個人的な批評や考察は控えるように。 出典の明記検証可能性独自研究は載せないに加え、wikipediaは何でないか中立的な観点熟読してもうちょっと冷静になって知的で客観的な文章を書きなさい。ここは個人の批評する場ではない。もう一度言うがここは百科事典だ。以上--Aiueo789 2008年1月5日 (土) 20:10 (UTC)[返信]

参考情報[編集]

参考情報がありましたので、ここノートに挙げておきます。Uryah 2008年1月5日 (土) 23:04 (UTC)[返信]

  • 朝日新聞 2008年1月1日 文化欄 “RE”の時代 1 KYキャラで下手こいた 必死に守る「ガラスの関係」
残念ながら参考には程遠いマッチポンプです。資料として欲しいのは2007年10月前後1ヶ月と6月です[空気,空気読めない,KY]---61.215.238.192

プラス1。Uryah 2010年6月13日 (日) 07:44 (UTC)[返信]

  • 長山靖生『「人間嫌い」の言い分』ISBN 4-334-03273-7 光文社新書 2004年10月 pp.40 - 43 関係の固定と関係性の固定は別のもの

プラス参考情報。Uryah 2011年3月3日 (木) 12:28 (UTC)[返信]

  • 朝日新聞 2011年1月29日 いま子どもたちは よそおう<9> No.29
  • 『知らずに他人を傷つける人たち』 香山リカ ISBN 978-4-584-12135-1 2007年 pp.124-131.

プラス。Uryah 2011年3月8日 (火) 15:21 (UTC)、2011年3月16日 (水) 11:08 (UTC)[返信]

  • 『安心社会から信頼社会へ』 山岸俊男 ISBN 4-12-101479-0 pp.182-187.
  • 『サンデルの政治哲学』 小林正弥 ISBN 978-4-582-85553-1 pp.34-36 (pp.14-38).
  • 朝日新聞 2011年3月16日 声欄 今は政局より政策論争大事

プラス。Uryah 2011年6月13日 (月) 12:06 (UTC)[返信]

  • 『コミュニティを問い直す つながり・都市・日本社会の未来』 広井良典 ISBN 978-4-480-06501-8 pp.241, 234-250.

「KY」について[編集]

「概要」の部分に >朝日新聞珊瑚記事捏造事件を払拭するために朝日新聞が率先して「空気を読めない」をKYと略し と書かれていますが、出典が明記されていません。 ネットでざっと調べてみましたが、「KY(空気が読めない)の流行元が朝日新聞である」というソースは見当たりませんでした。 独自研究にあたるか、もしくはねつ造ではないでしょうか? それに当たらないのであれば出典を明記する必要があるのでは?--以上の署名のないコメントは、218.130.203.34会話投稿記録)さんが 2008年1月26日 (土) 15:48 (UTC) に投稿したものです(青山コロハ 2008年1月26日 (土) 15:52 (UTC)による付記)。[返信]

テンプレート「国際化」について[編集]

Gordon Sの発言は削除。Wikipedia:投稿ブロックの方針#投稿ブロック済みユーザーの別ユーザー名(ID)あるいは別IPアドレスに対する追加ブロックに基づく。--61.86.33.16 2008年5月18日 (日) 00:43 (UTC)[返信]