タカラコスモス

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タカラコスモス
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1984年5月5日
死没 2011年8月19日
サクラシンゲキ
レデースマート
母の父 タマナー
生国 日本の旗 日本北海道静内町
生産者 桜井秋雄
馬主 村山義男
調教師 坂本栄三郎美浦
競走成績
生涯成績 17戦0勝
獲得賞金 531万円
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タカラコスモス日本競走馬障害飛越および馬場馬術の競技馬である。学生馬術競技会において「女王」と呼ばれる活躍を見せたが、失明により馬術競技馬として活躍する道を失う。青森県立三本木農業高等学校馬術部に引きとられ、同部関係者との触れ合いがテレビや映画などで取り上げられた。

来歴[編集]

もともとは競走馬で、美浦の坂本栄三郎厩舎に所属していた。1986年に中央競馬にデビューしたが17戦(うち障害レース2戦)して1勝もできなかった。

1988年に日本中央競馬会宇都宮育成場を経て[要出典]、乗馬として日本獣医畜産大学(現在の日本獣医生命科学大学)馬術部に引き取られる[1]と馬術競技馬として資質が開花し、1989年から1993年にかけて5年連続で全日本学生馬術大会に出場し、1990年には優勝するという成績を残した[2]。日本獣医畜産大学馬術部元監督の山内英樹によると、タカラコスモスには「自分が一番」という気位の高さがあり、人の指示に従わず反抗するところがあった[3]反面、障害を飛越する際にきちんと脚を揃えるなど、馬術競技馬に求められる「潔癖性」を先天的に備えていた[4]

学生馬術競技会において「女王」と呼ばれ[4][5]、「馬術の世界で知らない者はいない」といわれるほどの存在となった[6]タカラコスモスであったが、前部ぶどう膜炎を発症していることが発覚した。病名が判明した時にはすでに手遅れの状態[† 1]で、獣医師からは視力が大幅に低下していることと、遠からず失明することが宣告された[8]。馬術部の関係者は、もはやタカラコスモスに障害を飛ぶことはできないと判断した[9]

1998年3月、タカラコスモスは青森県立三本木農業高等学校に引き取られた[10]。同校馬術部顧問の藤森亮二は、かつて全日本学生馬術大会で目にしたタカラコスモスを気に入り、馬術競技馬を引退した後は同校で同馬を引き取りたいと周囲に公言したことのある人物であった[11]。「あわよくば名馬復活を」と目論む藤森[12]は青森県十和田市赤沼温泉へタカラコスモスを連れて行き、温泉水やすり潰したトチノキの実を目に塗るなど約5か月にわたり治療を試みたが症状は改善せず、諦めて8月に馬術部の馬房へ連れ帰った[13]。三本木農業高等学校でのタカラコスモスは気性が非常に荒く、目ヤニと鼻汁が絶えないなど手がかかる[14]反面、騎乗者の指示に従わない[15]ところを見せながらも他の馬にはない乗り心地のよさを感じさせる馬であった[16]。なお、三本木農業高等学校へ移ってから一度だけではあったが馬術競技会に出場し、ゆっくりとした速度ではあったが完走することに成功している[17][† 2]

2000年、藤森はタカラコスモスの資質を受け継いだ馬を作り上げ、部員に騎乗させたいという思いから、同馬を種牡馬セルフランセのブレットサンクレール号[19])と交配させる計画を立てた[20]。すでに17歳(旧馬齢)と高齢であったタカラコスモスの出産には生命の危険が伴い[21]、しかも目が見えないタカラコスモスが子育てを行うのは困難だ[22]という指摘もあったが藤森は「イチかバチかだ」という気持ちで計画を実行に移した[21]

タカラコスモスはその後、2001年4月に無事に仔(牝馬[23])を産み[24]、仔はタカラコスモスの「モス」と、当時タカラコスモスの世話をしていた馬術部員の名前の一部をとって「モスカ」と名付けられた[25]。藤森らは目の見えないタカラコスモスがモスカを踏みつけてしまわないよう、モスカの首輪に鈴をつけて所在が把握できるようにした[26]。モスカは間もなく母親譲りの跳躍力と頑固さ、気位の高さを見せるようになった[27]。一方、出産を経験したタカラコスモスの気性はそれまでよりもおとなしくなったという[28]。タカラコスモスの子育ては青森放送が何回か取材に訪れて放送され、これはビデオ「盲目の名馬 タカラコスモス」として商品化もされている(2002年日本民間放送連盟賞を受賞)。さらに2008年10月4日にはコスモスと三本木農高関係者の触れ合いを描いた映画『三本木農業高校、馬術部』が公開され、2009年5月26日に同映画のDVDが発売された。

2011年6月下旬に体調を崩し、8月19日朝に部員によって厩舎の中で死んでいるのが発見された[29][30]。死因は老衰とみられている[29][31]。同年11月9日、三本木農業高校の敷地内にタカラコスモスの墓標が建てられた[32][33]

血統表[編集]

タカラコスモス血統グレイソヴリン系 / Nearco 4×5=9.38%、Nasrullah 4×5=9.38%(父内)、Pharos 5×5=6.25%(母内)) (血統表の出典)

サクラシンゲキ
1977 鹿毛
父の父
*ドン
Don
1966 芦毛
Grey Sovereign Nasrullah
Kong
Diviana Toulouse Lautrec
Desublea
父の母
アンジェリカ
1970 黒鹿毛
*ネヴァービート Never Say Die
Bride Elect
スターハイネス *ユアハイネス
スターロツチ

レデースマート
1971 栗毛
*タマナー
Tamanar
1955 栃栗毛
Sunny Boy Jock
Fille de Soleil
Tresa Bozzetto
Torrigiana
母の母
ミスカリム
1961 鹿毛
*カリム Nearco
Skylarking
クリゾノ トシシロ
クリススム F-No.12
主な近親

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 獣医学の知識のあった部員たちは風邪や結膜炎涙腺の詰まりを疑い、それらの疾病に対する治療を行ったため、獣医師の診察を受けさせるまでに1年以上かかってしまった[7]
  2. ^ タカラコスモスが出場した馬術競技会は、2001年11月に行われた青森県民馬術大会である(結果は14人中8位)。この時タカラコスモスに騎乗したのは、およそ3年間にわたり同馬の身の回りの世話をし、藤森によって強固な信頼関係が構築されていると判断された馬術部員である[18]

出典[編集]

  1. ^ 橘内2002、20頁。
  2. ^ 橘内2002、23頁。
  3. ^ 橘内2002、67-68頁。
  4. ^ a b 橘内2002、21頁。
  5. ^ 盲目の名馬「タカラコスモス」の墓標建立”. 夢追人ニュース. BUNKA新聞 (2011年12月23日). 2012年7月13日閲覧。
  6. ^ 橘内2002、28頁。
  7. ^ 橘内2002、24-25頁。
  8. ^ 橘内2002、22-26頁。
  9. ^ 橘内2002、27頁。
  10. ^ 橘内2002、33-37頁。
  11. ^ 橘内2002、28-30頁。
  12. ^ 橘内2002、45頁。
  13. ^ 橘内2002、41-45頁。
  14. ^ 橘内2002、46-47・64頁。
  15. ^ 橘内2002、72頁。
  16. ^ 橘内2002、65-66・120頁。
  17. ^ 橘内2002、87-88頁。
  18. ^ 橘内2002、127-129頁。
  19. ^ 橘内2002、90頁。
  20. ^ 橘内2002、86-87頁。
  21. ^ a b 橘内2002、89頁。
  22. ^ 橘内2002、88-89頁。
  23. ^ 橘内2002、17頁。
  24. ^ 橘内2002、9頁。
  25. ^ 橘内2002、113頁。
  26. ^ 橘内2002、114-116頁。
  27. ^ 橘内2002、116-117頁。
  28. ^ 橘内2002、116頁。
  29. ^ a b 三農馬術部のタカラコスモス死ぬ”. 47NEWS (2011年8月30日). 2012年7月11日閲覧。
  30. ^ 27歳タカラコスモス死ぬ 「三本木農業高校、馬術部」のモデル”. 47NEWS (2011年8月30日). 2012年7月11日閲覧。
  31. ^ タカラコスモス逝く/映画化された盲目馬”. デーリー東北新聞社 (2011年9月1日). 2012年7月11日閲覧。
  32. ^ タカラコスモスの墓標完成”. 北奥羽ネット. デーリー東北販売店会 (2011年11月11日). 2012年7月11日閲覧。
  33. ^ 三農に盲目のタカラコスモスの墓標完成”. デーリー東北新聞社 (2011年11月10日). 2012年7月11日閲覧。

参考文献[編集]

  • 橘内美佳『私、コスモの目になる!』主婦と生活社、2002年。ISBN 978-4-391-12619-8 

外部リンク[編集]