ジヴィエツ
ジヴィエツ | ||
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市が立つ広場と大聖堂の鐘楼 | ||
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北緯49度41分21秒 東経19度12分21秒 / 北緯49.68917度 東経19.20583度 | ||
国 | ポーランド | |
県 | シロンスク県 | |
郡 | ジヴィエツ郡 | |
基礎自治体 | ジヴィエツ(都市型自治体) | |
政府 | ||
• 町長 | アントニ・パヴェウ・シュラゴール | |
面積 | ||
• 合計 | 50.57 km2 | |
最高標高 | 400 m | |
最低標高 | 344 m | |
人口 (2019年) | ||
• 合計 | 31,194人 | |
• 密度 | 620人/km2 | |
等時帯 | UTC+1 (中央ヨーロッパ時間) | |
• 夏時間 | UTC+2 (中央ヨーロッパ夏時間) | |
郵便番号 |
34-300 から 34-330 | |
ナンバープレート | SZY | |
ウェブサイト | zywiec.pl |
ジヴィエツ(ポーランド語: Żywiec [ˈʐɨvjɛts])は、ポーランド南中部の町。1975年よりビェルスコ=ビャワ県に属していたが、1998年の地方行政改革でシロンスク県に再編された。人口は3万1194人(2019年6月時点)。ドイツ語名はザイブッシュ (Saybusch) である。
市街はジヴィエツ湖に近く、ソワ川に臨む。国内に8つある保護区のひとつ、ジヴィエツ自然公園の域内にあたる。
歴史
[編集]14世紀中葉、ジヴィエツに城が築かれたと同時代の文献にある。以後この城には改築や室内装飾が繰り返され、ゴシック、ルネサンス、バロック建築を含むさまざまな様式を持つに至った。17世紀初頭には城を取り囲むように、広さ26万平方メートルの公園が開かれた[1]。
町は1315年からオシフィエンチム公国に属したが、チェシン公国配下の上シロンスクの諸侯に平定され、1457年にポーランド王国領となった。1624年に時のポーランド王妃コンスタンツェ・フォン・エスターライヒに分与された。大洪水時代の1656年にスウェーデン軍から略奪や破壊を受け、1672年にポーランド人のシュラフタ(貴族)ヤン・ヴィエロポルスキの所領となった。
14世紀末ごろに建築された聖十字教会は、1679年と1690年の二度にわたり拡張された。敷地には現在、18世紀のバロック教会が建つ。町で第二の教会、聖母マリア生誕大聖堂は15世紀前半の築だが、バロック様式に改築中の1711年に火事で焼け落ちた[1]。
1772年の第一次ポーランド分割で、ジヴィエツは新生ガリツィア・ロドメリア王国に組み込まれた。しかしアルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェンから1810年に購入されると、再び近隣のチェシン公国領となった。1822年に彼が死ぬと、その所領はオーストリアのロレーヌ家からカール・フォン・エスターライヒ=テシェンの手に渡った。カールの長男アルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェンが1852年に設立したジヴィエツ醸造所は、1990年代にハイネケンに買収された後も操業を続けている。2006年には敷地内に博物館がオープンした[2]。
第二次世界大戦
[編集]1939年のポーランド侵攻で、ジヴィエツはナチス・ドイツに占領された。当主カール・アルブレヒト・フォン・エスターライヒは「人民リスト」への署名を拒み、ドイツに財産没収のうえ逮捕された。
ナチ当局は1940年9月から翌月にかけて、ドイツ国防軍とゲシュタポの主導のもと「ザイブッシュ作戦」を決行、ジヴィエツ郡の2万人弱のポーランド系住民がポーランド総督府領に強制送還された[3]。この事件はアルフレート・ローゼンベルク東部占領地域大臣と同アルフレート・マイヤー副大臣による「東方植民」計画の一環であった[4]。
ゆかりの人物
[編集]- トマシュ・アダメク - プロボクサー
- ヴィルヘルム・ブラッセ - 写真家
- カール・シュテファン・フォン・エスターライヒ - 軍人
- アガタ・ヴルベル - ウエイトリフティング選手
- トマシュ・ヨドウォヴィエツ - サッカー選手
- ウンターハヒング(ドイツ)
- リオン(フランス)
- チャドツァ(スロバキア)
- エイドゥー(イングランド、ウェスト・サセックス)
- ゲデレー(ハンガリー)
- リプトフスキー・ミクラーシュ(スロバキア)
- シュチトノ(ポーランド)
脚注
[編集]- ^ a b “Żywiec”. 2010年2月5日閲覧。
- ^ “Heineken International”. 2010年2月5日閲覧。
- ^ Mirosław Sikora (20 September 2011). “Saybusch Aktion - jak Hitler budował raj dla swoich chłopów” (Polish). OBEP Institute of National Remembrance, Katowice. Redakcja Fronda.pl. May 05, 2012閲覧。
- ^ Etlin, R. A., John. Art, culture, and media under the Third Reich. Chicago: Chicago University Press, 2003.
- ^ “Internetowy Serwis Miejski”. zywiec.pl (2008年6月20日). 2011年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年6月3日閲覧。
外部リンク
[編集]- ジヴィエツのユダヤ人街 Virtual Shtetl