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ジョーウチ・ヴォーディ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョーウチ・ヴォーディ
Жовті Води
ジョーウチ・ヴォーディの市旗 ジョーウチ・ヴォーディの市章
市旗 市章
位置
ジョーウチ・ヴォーディの位置(ウクライナ内)
ジョーウチ・ヴォーディ
ジョーウチ・ヴォーディ
ジョーウチ・ヴォーディ (ウクライナ)
座標 : 北緯48度21分59秒 東経33度30分9秒 / 北緯48.36639度 東経33.50250度 / 48.36639; 33.50250
歴史
市制施行 1957年
行政
 ウクライナ
 州 ドニプロペトローウシク州
 地区 ジョーウチ・ヴォーディ地区
 市 ジョーウチ・ヴォーディ
地理
面積  
  市域 33.25 km2
標高 150 m
人口
人口 (2022年1月1日現在)
  市域 42052[1]
    人口密度   1264.7人/km2
その他
郵便番号 52200-52290
市外局番 +380-5652
  • 団体コード:1210700000
公式ウェブサイト : 公式サイト

ジョーウチ・ヴォーディウクライナ語: Жовті Води)はウクライナドニプロペトローウシク州ジョーウチ・ヴォーディ地区にある都市ジョーウタ川の河岸に位置する。都市の高さは海抜150 mである。面積は33.25 km²。人口は42,052人 (2022年1月1日)[1]

ジョーウチ・ヴォーディは1895年に創建された。1957年に市制施行された。

市内ではジョーウチ・ヴォーディ駅がある。首都キエフまでの直線距離は312 km、車道で380kmとなっている。州庁所在地までの直線距離は111 km、鉄道で135 km、車道で136kmとなっている。ジョーウチ・ヴォーディの日は、8月の最後の日曜日となっている。

語源

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ジョーウチ・ヴォーディは「黄色」という意味になるが、ジョーウタ川Річка Жовта)に由来する名称である。

地勢

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ジョーウチ・ヴォーディはウクライナで最も若い都市のひとつで、市制が敷かれたのは1957年のことであった。人口は5万1500人で、総面積は33km2である。町は、ジョーウタ川の谷間に位置しており、州都ドニプロペトロウシクからは136km隔たっている。

都市名称の由来となっているジョーウタ川は、ドニエプル川に流れ込むインフレーツィ川Інгулець)の支流である。その水はその名の通り黄色く濁っており、これは鉄鉱石の成分が流れ出て酸性を帯びているためとされる。中国黄河とはその成り立ちが異なる。

歴史

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1648年春、ウクライナ・コサックヘーチマン(首領)ボフダン・フメリニツキーがジョーウチ・ヴォーディ渓谷でポーランド・リトアニア共和国政府軍を撃破し、この戦いをきっかけにウクライナ独立の機運が高まった。この戦いはフメリニツキーの乱の最初の重要な合戦であり、後にジョーウチ・ヴォーディの戦いとして記憶された。

ジョーウチ・ヴォーディ渓谷に最初の居住区が作られたのは17世紀のことで、ザポロージャ・コサックの小(хутор)が置かれた。その後、村は発展し、セロー・ジョーウテ(село Жовте)となった(セローは規模の大きな村のこと)。18世紀末には200人が居住し、農業牧畜が行われていた。19世紀末にはジョーウタ川の水が多量の鉄鉱石を含むことが判明した。1895年からその採集が開始され、村はジョーウタ川居住区(селища Жовті Ріка)と呼ばれるようになった。採集作業は1901年から本格化した。

大祖国戦争開戦時には6万5000人が居住した。1941年8月13日にジョーウタ川居住区はナチス・ドイツによって占領され、居住区では反ファシズム組織が結成された。ドニエプル川の戦いののち、1943年10月20日にはイヴァーン・コーネフ将軍率いる赤軍によってドイツ軍の占拠から解放された。

1950年にはウラン鉱石を含むということが発見され、すぐさまその採取が始められた。1951年7月24日には、東鉱山選鉱コンビナート(Східний гірничо-збагачувальний комбінат)が開設され、現代に至るまでウラン産業が発展している。

参考文献

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脚注

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  1. ^ a b Чисельність наявного населення України на 1 січня 2022” [Number of Present Population of Ukraine, as of January 1, 2022] (uk,en). ウクライナ国家統計局. 2023年3月28日閲覧。

外部リンク

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