サン=テティエンヌ=オ=モン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
Saint-Étienne-au-Mont
Blason Saint-Etienne-au-Mont.svg

Ecault white dune.jpg
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) オー=ド=フランス地域圏
(département) パ=ド=カレー県Blason département fr Pas-de-Calais.svg
(arrondissement) ブローニュ=シュル=メール郡
小郡 (canton) ウトロー小郡
INSEEコード 62746
郵便番号 62360
市長任期 ブリジット・パスボスク
2014年 - 2020年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté d'agglomération du Boulonnais
人口動態
人口 5097人
2012年
人口密度 363人/km2
住民の呼称 Stéphanois[1]
地理
座標 北緯50度40分56秒 東経1度37分37秒 / 北緯50.6822222222度 東経1.62694444444度 / 50.6822222222; 1.62694444444座標: 北緯50度40分56秒 東経1度37分37秒 / 北緯50.6822222222度 東経1.62694444444度 / 50.6822222222; 1.62694444444
標高 平均:m
最低:3 m
最高:113 m
面積 14.05km2
Saint-Étienne-au-Montの位置(フランス内)
Saint-Étienne-au-Mont
Saint-Étienne-au-Mont
公式サイト www.saintetienneaumont.com
テンプレートを表示

サン=テティエンヌ=オ=モンSaint-Étienne-au-Mont)は、フランスオー=ド=フランス地域圏パ=ド=カレー県コミューン

町は、数km離れていて地元住民には独立しているようにみなされている、非常に異なる2つの地域にまたがって人口5000人が暮らしている。東側が都市化されたポン・ド・ブリックで、西側が農村地帯のエコーである。

地理[編集]

フランス北部にあるサン=テティエンヌ=オ=モンは、ブローニュ=シュル=メールの南5kmのところにある[2]

コミューンは、数km離れた2つの地域に分かれている。

  • ポン・ド・ブリック - 東側を占め、都市化されており、人口密度が十分にある(コミューン人口の約9割を占める)。
  • エコー - 西側にあり、主に牧草地や野原、自然地域が占める農村地帯。コート・ドパール(オパール海岸)にあり、マンシュ海峡に面している。

2つの地域はどちらも同じコミューンである(役場はポン・ド・ブリックにある)が、地元住民はしばしば2つは独立した存在であるようにみなしている。

町はブローネ地方に属している。エコー集落は標高約100mの丘の上にあるが、一方でポン・ド・ブリックはリアーヌ川沿いにあり、川床が島に伸びている。西側のエコー山地はエコーの森とエコー砂丘からなる。エコーの砂浜は全長2555mあり、エスキエン浜とアルドゥロ浜の間、山地の背後にある[3]

コミューンの北側はリアーヌ川と隣接する。リアーヌ川は全長36.7kmあり、ブローニュにてマンシュ海峡に注ぐ。ワレンヌ川とカシェーヌ川はエコーが水源の河川である。ワレンヌ川はマンシュ海峡に注ぎ、カシェーヌ川はリアーヌ川に合流する。町は、2012年11月1日から3日にかけてポン・ド・ブリックのリアーヌ川近くで発生した、洪水や土砂崩れをきっかけに、自然災害の状態であると認識されている[4]

コート・ドパールにあるため、町は海洋性気候である。気温のふり幅は狭く、冬は穏やかで夏は涼しい。降霜や降雪は非常に少ない。風は常に活動的で、吹く方向に応じて気候に大きな影響を与える。西からの風が比較的清浄な空気をもたらし、沿岸に雲を押し込む。北または東からの冷たい風も吹く。

由来[編集]

サン=テティエンヌ=オ=モン[編集]

フランス革命の間、コミューンはオディスク(Audisque)にちなみサン=テティエンヌと呼ばれていた。1937年に現在の名称となった。この名前は、エコーの教会が建っているサン=テティエンヌ山にちなんでいる[5]

エコー[編集]

エコーの17世紀のつづりはElcauであった。18世紀にはEcauxとなった。住民は自らをエコートワ(Écaultois)と呼ぶ。

ポン・ド・ブリック[編集]

ポン・ド・ブリックという用語の中で、briquesは同じ名称である『レンガ』とは何の関係もない。これは古いゲルマン語で、橋を意味するbrickeからきており、直訳するとポン・ド・ブリックとは『橋の橋』となる[6]。住民の自称はポン・ド・ブリコワ(Pont-de-Briquois)である。

歴史[編集]

エコーの教会
ポン・ド・ブリックのサント・テレーズ教会

古代、サン=テティエンヌ=オ=モンの土地はベルガエ族のモリニ族(en)が占領していた。リアーヌ川は豊富な水を運ぶ川で、河口は潮が満ちると事実上の湖となり、隣接するコミューンのイスクに達するほどだった(村の名前はケルト語で水を意味する言葉が起源である)。干潮になると、湖は通り抜けられない潟となった。

2つの岸、ウトロー半島、ブローニュとリアーヌ川南岸の地域とをつなぎ、かの地はGesoriacumと呼ばれていた。また、荒れ狂う河川を止めるために、谷が狭くなるイスクの下流側に橋を架けた。これがポン・ド・ブリックの人口密集地の起源である。古代ローマの歴史家フロルスの一節は、この橋がティベリウス帝の弟大ドルススの時代である、紀元前12年から紀元前9年の間に建設されたことを示唆している。

さらに、1世紀から2世紀の間につくられたガロ=ローマ時代の小さな定住地が、エコーで2004年に発掘された。日常の道具に加えて、6軒分の住宅の基礎の周りには、廃棄された堆積物が発見された。この堆積物から、金属加工の職人がいたとわかった[7]

ポン・ド・ブリックの地名は、1278年に書かれた憲章で初めて言及される。このことは、ポン・ド・ブリックがブローニュ郊外の最も端であったことを意味している。橋はブローニュとアミアンの間の道でもあった。この道はアタンの盆地でカシャンを横断してブローネ地方に入ってきた。13世紀の公文書では、1121年頃にムスティエ・サンテティエンヌという教会があったことを報告している。この教会は、現在のエコーの教会の起源だろう。教会は14世紀にイングランド軍によって大規模に破壊されている。1630年、教区司祭ルイ・マケは教会を再建しようとしたが、適切な結果を得られず失敗している。

1803年から1805年にかけ、ナポレオン・ボナパルトは、イギリスへの攻撃準備のため、ブローニュ=シュル=メールの周囲にあった軍の野営地に移動した。ブローニュ駐屯地は、大陸軍になる大西洋岸軍を迎えた。皇帝はポン・ド・ブリックにある小さなシャトーに住まいを構えた(このシャトーは現在、隣のコミューン、サン・レオナールにある)。このシャトーを住まいとしたのは、ブローニュと往来が容易なこと、駐屯地がリアーヌ川沿いにあるのが理由である。

第二次世界大戦中、ブローネ地方の他のコミューンと同様に、コミューンは大規模な被害を受けた。具体的には、戦争が終わってから、エコーに残っていた住宅は数軒にすぎなかったのである[8]

人口統計[編集]

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2012年
3423 4389 4301 4632 5037 4995 5059 5097

source=1999年までLdh/EHESS/Cassini[9]、2004年以降INSEE[10][11]

友好都市[編集]

脚注[編集]