サント=クロワ=アン=ジャレ

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Sainte-Croix-en-Jarez
Blason ville fr Sainte-Croix-en-Jarez (Loire).svg
Prieuré de Sainte Croix en Jarez-20110402.jpg
行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏
(département) ロワール県Blason département fr Loire.svg
(arrondissement) サンテティエンヌ郡
小郡 (canton) ル・ピラ小郡
INSEEコード 42210
郵便番号 42800
市長任期 ダニエル・トルク[1]
2014年-2020年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté urbaine Saint-Étienne Métropole
人口動態
人口 449人
2014年
人口密度 37人/km2
地理
座標 北緯45度28分44秒 東経4度38分49秒 / 北緯45.4790度 東経4.6469度 / 45.4790; 4.6469座標: 北緯45度28分44秒 東経4度38分49秒 / 北緯45.4790度 東経4.6469度 / 45.4790; 4.6469
標高 平均:? m
最低:349  m
最高:955 m
面積 12km2
Sainte-Croix-en-Jarezの位置(フランス内)
Sainte-Croix-en-Jarez
Sainte-Croix-en-Jarez
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サント=クロワ=アン=ジャレSainte-Croix-en-Jarez)は、フランスオーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏ロワール県コミューン

歴史[編集]

クゾン川

1280年、ギヨーム・ド・ルシヨンの未亡人ベアトリクス・ド・ラ・トゥール・デュ・パンによって修道院が建立された。ギヨーム・ド・ルシヨンは1275年にエルサレム王国の首都サン・ジャン・ダクル(現在のアッコン)へ送られ、1277年6月8日に発生したシャルル・ダンジューのクーデターによって消息を絶っていた。彼女は祈りによって自身の記憶を貴ぼうとした。そのため、自身の叔父の1人が入会していたシャルトルーズ会修道会に沿うようにしたのである。

彼女は現在のシャトーヌフの村の位置に、封土として要塞を所有していた。そこはクゾン川とジエ川の合流地点で、オーヴェルニュからローヌ川谷へ向かう道の戦略的岐路となっており、修道院を建立することとなった場所からおよそ10kmの範囲内にあった。

フランス革命は全てをひっくり返した。現在の教区教会はこの時も今と同じ場所にあった。司祭や兄弟たちの共同体は1792年まで存続していたが、その後国有財産として押収された。修道院は1794年に競売にかけられ、地元の世帯が内部に定住できるよう44分割した。ブルボン王政復古後、シャルトルーズ会は資産を取り戻そうとしなかった。44家族とそれぞれ交渉する必要があったからだ。しかしジエ川谷の産業化が始まると、孤立を必要とする修道士たちにとって情勢は非常に不確かとなった。修道院はサント・クロワ・アン・パヴザン修道院の名で村に残った。パヴザンとは隣接するコミューンの名である。1888年にコミューンとして分離し、サント=クロワ=アン=ジャレとなった。1840年、中庭に面した回廊は荷車の往来を容易にするため破壊された。この時代に創建者ベアトリクスの部屋も、崩壊の恐れがあったため壊された。創建時からある石のヴォールトは、解体されて木枠に置き換えられた[2] · [3] · [4] · [5] · [6] · [7] · [8]

人口統計[編集]

1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2005年 2014年
295 274 310 342 329 351 405 449

参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[9]、2006年以降INSEE[10][11]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Sainte-Croix-en-Jarez sur le site de l'association des maires de France, consulté le 29 juin 2015.
  2. ^ Bibliothèque nationale de France. Recueil des Historiens des Croisades publié par les soins de l'Académie des inscriptions et belles lettres à Paris 1875 (Chroniqueurs et "continuators" des croisades entérinant la disparition de Guillaume de Roussillon et le coup d’État en 1277).
  3. ^ Ulysse Chevalier.Les Regestes Dauphinois ; tome III ; fascicules de VII à IX, n° 12237 (fondation). n° 11793 (envoi du testament).
  4. ^ Michel Balard, Alain Ducellier et Pierre Vincent Claverie Migrations et Diasporas Méditerranéennes, juillet 2002. Publications de la Sorbonne et de Rennes (ordonnance royale et logistique envoyée en Terre Sainte sous l'égide de Guillaume de Roussillon).
  5. ^ Francisco GabrieliChroniques arabes des croisades, novembre 2001
  6. ^ Gauthier Langlois, Olivier de Termes, le cathare et le croisé (vers 1200-1274), Toulouse, Éditions Privat, coll. « Domaine cathare »,‎ , 288 p. (ISBN 2-7089-7520-X)
  7. ^ M. Lavocat Procès des frères et de l'Ordre du Temple, Paris, 1888
  8. ^ Christian Rollat L'Affaire Roussillon dans la Tragédie Templière, juillet 2006
  9. ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=31327
  10. ^ https://www.insee.fr/fr/statistiques/2534314?geo=COM-42210
  11. ^ http://www.insee.fr