サソン (トルコ)

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サソン
サソンの位置(トルコ内)
サソン
サソン
座標:北緯38度22分49秒 東経41度23分43秒 / 北緯38.38028度 東経41.39528度 / 38.38028; 41.39528座標: 北緯38度22分49秒 東経41度23分43秒 / 北緯38.38028度 東経41.39528度 / 38.38028; 41.39528
トルコの旗 トルコ
バトマン県
政府
 • 市長 Muzzafer Arslan (AKP)
 • カイマカム(知事) Abdullah Özadalı
面積
 • 郡 731.90 km2
人口
(2012)[2]
 • 都市部
11,322人
 • 郡部
31,475人
 • 郡部密度 43人/km2
郵便番号
72500
ウェブサイト www.sason.bel.tr
サソン地方。
バトマン県内のサソン郡の位置。

サソントルコ語: Sasonアルメニア語: Սասուն Sasunクルド語: Qabilcewz[3]アラビア語: قبل جوز‎)は、旧名をサスン (Sasun)、サスーン (Sassoun) という、トルコバトマン県にある郡 (district)。かつては、スィイルトサンジャク英語版(県)の一部として、1880年まではディヤルバクルヴィライェトに、1892年にはビトリス・ヴィライェト英語版に属しており、1927年までムシュの一部に残っていた。 1993年まではスィイルト県の郡のひとつであった。郡の領域は、時とともに大きく変化してきた。現在の領域は、19世紀当時の領域とは異なっており、かつてもっと北方に広がっていた当時のサスンの領域は、そのほとんどがムシュの中央部の郡に含まれている[4]

アルメニア人たちがサスーンと呼ぶこの町は、アルメニアの文化英語版や歴史にとって重要な役割を果たしてきた。この町は、アルメニアの国民的叙事詩である「サスーンの向こう見ず英語版」の舞台である。19世紀末から20世紀初めにかけては、この町はアルメニア人民兵であるフェダイ英語版たちの主要な活動拠点となり、オスマン帝国当局やクルド人部族に対する武装蜂起も1894年蜂起英語版1904年蜂起英語版の2回が発生した。サスーンは外部者の言語であるアラム語で「アルメ (Arme)」と呼ばれるが、これが「アルメニア」という外側から名付けられた呼称(エクソニム、exonym)の由来である。2019年3月の地方選挙英語版では、ムザファー・アルスラン (Muzaffer Arslan) が市長に選出された[5]。また、アブドゥラー・オザダリ (Abdullah Özadalı) がカイマカム英語版(知事)に任じられた[6]

歴史[編集]

この地域は、歴史的にはアルメニア高原の一部であり、サスーン (Sasun) として知られていた。往時のアルメニア王国においては、アルザネネ英語版地方の一部であった。その後、この地域は772年からマミコニアン英語版朝の支配下に入り、1189年ないし1190年アルメニア王英語版によってマミコニアンの勢力がキリキアに追われるまでその状態が続いた[7]

オスマン帝国[編集]

オスマン帝国は、この地域を征服すると、当地はビトリス・ヴィライェトムシュ県(サンジャク)の一部とされ、引き続き相当数のアルメニア人たちが居住し続けた[8]。当時のサソンは、40か村ほどのアルメニア人集落の連合体であり、その住民たちは、サスーンツィス (Sasuntsis, アルメニア語: Սասունցի) と呼ばれていた[8]。彼らは、周囲を猛々しいクルド人部族たちに囲まれており、またしばしば彼らへの献納も強いられたが、19世紀末にクルド人勢力が政府の支配下に取り込まれるまでは、トルコの支配に組み入れられない自治を維持することができた[8][9]。誇り高い戦士であったサスーンツィスたちは、自らの武器をすべて自作し、外の世界に由来する何物にも頼らなかった[8]

1893年、3千とも4千ともいう遊牧民化したクルド人たちが、ディヤルバクル平野からサソン地方へ流入してきた。この遊牧民たちの侵入は、彼らが夏場にこの地域の山の草地を家畜の放牧場とするためであり、定住しているアルメニア人たちにとっては迷惑なものであった。一部のクルド人部族は、家畜を盗んだり、オスマン帝国への税とは別に、自分たちにも上乗せして税を払うよう強いて、アルメニア人の農業集落に経済的壊滅をもたらした[10][11][12]。アルメニア人たちはこの搾取に抵抗することを決意し、争いの中でひとりのクルド人が死んでしまう。このクルド人の死は、アルメニア人たちが反乱を企てている兆しであるとされ、トルコ当局はクルド人が報復のためにアルメニア人を襲撃することを容認した[13]

武装したアルメニア人の村人たちは、クルド人たちを追い払ったが、そのことはオスマン帝国の当局にも潜在的な脅威と映った。1894年、村人たちは、クルド人による新たな攻撃や搾取から自分たちをしっかり護ってもらえない限り、オスマン当局への納税を拒むという姿勢をとった。これに対し政府は、3千の正規兵を送り、これにクルド人非正規兵も加わって村人たちを武装解除し、その過程で900人とも3,000人とも言われる男女、子供を問わない殺戮がおこなわれた。この「サスーン事件 (Sasun affair)」は広く報じられ、欧州列強の代表団が調査に入って、結果的にオスマントルコ側もアルメニア人居住地域の六州英語版ヴィライェト)を設置することになった。こうした圧力に対して、皇帝アブデュルハミト2世は、1895年1896年に反アルメニア人の動きを加速させた[14]

この、いわゆるハミディイェ虐殺英語版について、マクダウォル (McDowall) は、少なく見ても 1,000人のアルメニア人農民がサソンで虐殺されたと推定しており[15]、そのすべてが1894年初めにオスマンの軍隊がでっち上げた事件によって駆り立てられたものであった[16]。サソンにおける虐殺に関与した役人や軍人たちには、勲章や恩賞が与えられた[17]

現代[編集]

今日では、サソンの町の住民は、ほとんどがクルド人アラブ人である。マイノリティとしてのアルメニア人もいるが数は限られており、1972年時点の推定では、この地方全体でもアルメニア人の村人は精々 6,000人ほどと見積もられていた[18]

文化[編集]

当地は、アルメニア神話を成す叙事詩Sasna Tsrer」、すなわち、「サスーンの向こう見ず」の舞台であるが、この話が発見されて、最初に部分的に書き留められたのは1873年のことであった。この話は別名を「Sasuntsi Davit」、すなわち、「サスーン のダヴィト英語版」ともいう.[8]。この叙事詩は、アルメニアがエジプトのカリフの侵攻を受けた670年ころのものとされ、アルメニアの民衆の英雄が外国からの侵略者を駆逐する話である[19]

脚注[編集]

  1. ^ Area of regions (including lakes), km²”. Regional Statistics Database. トルコ統計局 (2002年). 2013年3月5日閲覧。
  2. ^ Population of province/district centers and towns/villages by districts - 2012”. Address Based Population Registration System (ABPRS) Database. トルコ統計局. 2013年2月27日閲覧。
  3. ^ Adem Avcıkıran (2009) (tr, ku). Kürtçe Anamnez Anamneza bi Kurmancî. p. 56. http://tirsik.net/danegeh/pirtuk/ismail%20bulbul/anamneza%20bi%20kurmanc%C3%AE.pdf 2019年12月17日閲覧。 
  4. ^ Thierry, J.M., Sasun. Voyages archéologiques, Revue des études arméniennes 23, 1992, p.320; Verheij, Jelle. ’Les frères de terre et d'eau’ : sur le rôle des Kurdes dans les massacres arméniens de 1894-1896", in: Bruinessen, M. van & Blau, Joyce (eds), Islam des Kurdes (special issue of Les Annales de l'Autre islam 5, Paris, 1998) p.239
  5. ^ Batman Sason Seçim Sonuçları - 31 Mart 2019 Yerel Seçimleri”. www.sabah.com.tr. 2020年3月29日閲覧。
  6. ^ Kaymakam Abdullah Özadalı”. www.sason.gov.tr. 2020年3月29日閲覧。
  7. ^ Hewsen, Robert H.. Armenia: A Historical Atlas. Chicago: University of Chicago Press. p. 95. ISBN 0-226-33228-4 
  8. ^ a b c d e Hewsen, Armenia, p. 206.
  9. ^ Hewsen, Armenia p. 167.
  10. ^ Balakian, Peter. The Burning Tigris: The Armenian Genocide and America's Response. New York: HarperCollins. p. 54. ISBN 0-06-055870-9 
  11. ^ Eliot, Charles. Turkey in Europe, p.405. 1908.
  12. ^ Quataert, Don. An Economic and Social History of the Ottoman Empire, p.880. Cambridge University Press, 1999. ISBN 0-521-57455-2
  13. ^ Balakian, pp. 54-55.
  14. ^ Hewsen. Armenia, p. 231.
  15. ^ White, Paul J. Primitive Rebels Or Revolutionary Modernisers?, p.60-61. Zed Books, 2000. ISBN 1-85649-822-0
  16. ^ Kaiser, Hilmar. Imperialism, Racism, and Development Theories, p.6. Gomidas Institute, 1997. ISBN 1-884630-02-2
  17. ^ Chisholm, Hugh. The Encyclopædia Britannica, p.568. The Encyclopædia Britannica Co., 1910.
  18. ^ Hewsen. Armenia, p. 268.
  19. ^ Toumanian, Hovhannes. David of Sassoun (Armenian and English version ed.). Oshagan Publishers. pp. 7–8 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]