アブドゥッラフマーン (モンゴル帝国)

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アブドゥッラフマーン(奥都刺合密、عبد الرّحمن 、‘Abd al-RahmānAbdur-Rahman、? - 1246年)は、モンゴル帝国の官人。アブドゥル・ラフマーンAbd-ur-Rahman)などとも表記される。

概要[編集]

西域ペルシア系出身の色目人で商家の出身とされる。

彼は経済の才能に長けていたことから、モンゴル帝国の官人であったチンカイ(鎮海)の推挙により、第2代君主オゴデイやその皇后であるドレゲネの厚い信任を受けた。1239年には拡大を続けるモンゴル帝国で支配機構の整備が追いつかなかったために財政難が起きたが、持ち前の才能でこれを解決したばかりか収入を倍増させるなどしたため、オゴデイから賞賛され、オゴデイの側近だった耶律楚材に代わって第一の側近の座を獲得する。

1241年にオゴデイが死去すると、監国として実権を握ったドレゲネの後ろ盾を得て、耶律楚材、チンカイ、ヤラワチらオゴデイ時代の官人を失脚させ、事実上の最高権力者として権勢を振るった。しかし、あまりに専制・横暴を極めたためにその施策は不人気であった。1246年にドレゲネが死去すると、彼女と共に自らが擁立したグユクによって罷免された後、死刑に処された。

アフマド・ファナーカティーとともに『元史』「奸臣伝」に連なるほど悪評の人物として名高く、1239年の功績も実際は漢人に対する極度な搾取が要因だったとされている。また、ドレゲネの信任を良いことに平気で法を破ったり、酒毒で酒を控えていたオゴデイに葡萄酒を勧めて死期を早めたというエピソードもある[要出典]

しかし、イル・カン国の宰相のラシード・ウッディーンが著した『集史』では、モンゴル帝国の経済を奨励し財政制度を近代化させたラフマーンの役割は大きいとされ、近年のモンゴル史研究では一面的な否定的評価を廃し、むしろ肯定的に評価されることが増えている。

関連項目[編集]