ファーティマ・ハトゥン

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ファーティマ・ハトゥンペルシア語: Fāṭima khātūn‎、中国語: 法提玛、? - 1246年)は、13世紀半ばにモンゴル帝国に仕えたマシュハド出身の女性。モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイ・カアン没後に皇后ドレゲネの側近として活躍したが、後に失脚し「呪術使い」として凄惨な処刑を受けたことで知られる。ファティマ・ハトンとも。

概要[編集]

生い立ち[編集]

チンギス・カンのホラズム遠征

ファーティマ・ハトゥンの事蹟については、ファーティマと同じくホラーサーン地方の出身であるアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーの著作『世界征服者の歴史』に詳しく、「ファーティマ・ハトゥンに関する事件/ماجرای فاطمه خاتون」という独立した章が設けられている[1]

『世界征服者史』によると、ファーティマはモンゴル軍がホラーサーンに侵攻しマシュハドのイマーム・レザー廟英語版が占領された際にモンゴル軍の捕虜になったという[1][2]。捕虜となったファーティマはモンゴル帝国の首都カラコルムに連れてこられ、売春に携わった[3]。カラコルムにおいてファーティマは持ち前の抜け目のなさと狡猾さで第2代皇帝オゴデイの皇后の一人のドレゲネに取り立てられ、オゴデイの治世の間にドレゲネの側近にまで成り上がった[1]。ジュヴァイニーはファーティマの狡猾さを『旧約聖書』のデリラに擬えている[1]

ドレゲネ称制期[編集]

ドレゲネ称制期に発行されたコイン

1241年にオゴデイ・カアンが崩御したとき、モンゴル帝国の慣例では正皇后が次期皇帝の選出まで国政を取り仕切る事になっていたが、第一皇后のボラクチン・ハトゥンは既に亡く、第二皇后のモゲ・ハトゥンもオゴデイの後を追うように亡くなったことから、第六皇后に過ぎなかったドレゲネが次期皇帝の選出まで国政を握ることになった(中国史上の文脈ではこの期間を「六皇后/ドレゲネ称制期」と呼ぶ)[4][5]。『集史』「グユク・カン紀」によるとドレゲネは当初オゴデイ・カアン期のまま大臣・総督の地位を留めたが、チンカイを初めとする一部の大臣にはかつて憤慨するような対応を受けたことから報復を企んでいた[5]。この時、ドレゲネを助けたのがファーティマであり、ファーティマの助言によってチンカイらオゴデイ・カアン期の高官たちの多くが地位を失ったという[5]

また、同じく『集史』「グユク・カン紀」によるとファーティマはヒタイ地方(旧金朝領華北のモンゴル語呼称)の総督マフムード・ヤラワチに対して以前から敵意を抱いており、ヤラワチを罷免して代わりにアブドゥッラフマーンヒタイ(漢地)総督の後任として指名した[5][6]。この時期、ヤラワチが失脚してアブドゥッラフマーンが台頭したことは漢文史料の側にも記録されている[7]。ファーティマは更にオカル・コルチ(Oqal qorči>ūqāl qūrchī/اوقال قورچی)なる人物を使者(イルチ)として派遣しヤラワチとその家臣を捕らえようとしたが、ヤラワチは敢えて堂々と使者を迎えて宴を催し、宴の裏で逃亡の準備を行い3日目に使者の目をかいくぐって逃れることに成功した[5]

チンカイやヤラワチら、ドレゲネとファーティマによってそれまでの地位を逐われた高官達の多くはオゴデイの息子の一人で四川チベット方面の侵攻を担当していたコデンの下に逃れた[5]。ヤラワチを取り逃したオカル・コルチはコデンの下を訪れヤラワチの身柄を引き渡すよう要求したがコデンはこれを拒否して、次代の皇帝(カアン)を決めるクリルタイに彼等を連れて行き、一族や高官たちの立ち会いの下彼等の罪を明らかにすると答えた[5]。このような状勢を知ったヤラワチの息子でトルキスタン総督府に仕えるマスウード・ベクも同様にジョチ・ウルスバトゥの下に逃れた[2][5]。また、同時期にイラン総督府の総督クルクズチャガタイ・ウルスとの確執が元で審理を受けたが、政敵であるシャラフ・ウッディーンがファーティマに取り入ったために失脚・処刑されたと記されており[5][8]、モンゴル帝国の三大属領(ヒタイ/漢地、トルキスタン、イラン)全ての高官がドレゲネ及びファーティマの報復人事の影響を受けることになった[2]

失脚[編集]

生前のオゴデイは息子達の中でも正妻から生まれたクチュコデンらを厚遇していたが、特にクチュの早世後はその子のシレムンを自らの後継者とするよう扱っていた。しかし、国政を握ったドレゲネは自らの息子でオゴデイにとっては庶長子にあたるグユクを次代の皇帝にすべく工作を行った[9]。ジョチ・ウルスのバトゥを筆頭として先代皇帝の庶長子に過ぎないグユクの即位に対しては強烈な反対が寄せられ、カアンを決める統一クリルタイがなかなか開かれなかったためにドレゲネ称制期は5年にも及んだが、1246年に遂にグユクは第3代皇帝として即位を果たした[10]

グユクが即位を果たした頃、その側近であるカダクに仕えるアラヴィー・サマルカンディー・シラなる人物が「ファーティマがコデンに呪いをかけている」と告発した[1][11][12]。コデン自身もグユクに使者を派遣して自らの体調が悪化しているのはファーティマの呪術の結果であると訴え出て、もし自身が死んだらファーティマに対して仇を取るよう伝えたという[1][12][13]。その後、コデンが亡くなるとグユクの下で復権したチンカイの勧めもあり、グユクはファーティマを差し出すようドレゲネに使者を派遣した[1][11][12]

『世界征服者史』によると、ドレゲネは当初「自分でファーティマを連れて行く」と言って身柄を差し出すことを拒否したため、ドレゲネとグユクの仲は悪化したが、グユクの強硬な態度の前に抗弁を諦め遂にファーティマを差し出した[1]。グユクの下に連れてこられたファーティマは裸で拘束され、空腹と喉の渇きに耐えながら凄惨な拷問を受け、遂に自らの罪を自白した[1]。最終的にファーティマは身体の上下にある穴という穴を縫い合わされ、フェルトにくるまれて河に投げ捨てられるという処刑を受けた[1][11][12]

『世界征服者史』はファーティマの罪状を明らかにするためにマシュハドまで使者が派遣され、ファーティマの関係者は弾圧を受けたと記している[1]。遠い生まれ故郷での調査や苛烈な拷問による自白を必要としたことは、ファーティマが「呪術を行った」という罪状の証拠が乏しかったことを示唆しており、この事件の本質は「呪術使いの処刑」ではなく「モンゴル宮廷内の派閥争い」にあったと考えられる[14]。実際に、ファーティマの推挙によって取り立てられたアブドゥッラフマーンは同時期に処刑されており、ファーティマの処刑を切っ掛けとするグユク即位直後の粛正が存在していたことが指摘されている[15]

なお、『集史』「グユク・カン紀」には即位したグユクが最初に手がけた裁判案件が「ファーティマ・ハトゥンの尋問」であって、ついで「テムゲ・オッチギンの帝位簒奪未遂」の尋問が行われたと記されている[5][16]。これは、「ファーティマ・ハトゥンの尋問」がファーティマ個人への追究というよりはモンゴル帝国内の派閥争いの制裁という側面を有しており[17]、「チンギス・カン一族(アルタン・ウルク)の内紛」以上に政治的に重要であるとみなされていたことを示唆する[18]

モンゴル帝国と魔術[編集]

モンゴル人が魔術/呪術の行使に対して強い警戒感を有していたことは、ファーティマ・ハトゥンと同時代にモンゴル高原を訪れたプラノ・カルピニらの報告にも示されている。

[モンゴル人は]占い・前兆・腸占い・魔術・妖術を大いに用い、悪魔が答えている時、神が語っているのだと信じる。…中略…また簡単に言うと、火によって全て清められると信じる。だから、君主であれ誰であれ使者が彼等のもとにやって来ると、その者と携えている贈り物を、二つの火の間を通させる。これは、浄めるためと、毒か何か携えてきた悪いもので魔術を行使しないようにするためである。 — プラノ・カルピニ、『モンガル人の歴史』第3章[19]

この記述にはキリスト教徒としてのカルピニの偏見が含まれているものの、13世紀のモンゴル人が毒物などによる暗殺と魔術による呪殺を明確に区別せずに警戒していたことが窺える。このようなモンゴル人の魔術に対する忌避感が、ファーティマ・ハトゥンへの凄惨な処刑に反映されたのではないかと指摘されている[20]

ファーティマ・ハトゥンを扱った作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k Kabīr 1378,pp.167-168/Boyle 1958,pp.244-247
  2. ^ a b c 佐口1968,p218
  3. ^ 原文はدر بازار قراقورم دلال محبت شد(Kabīr 1378,p167)。ボイルの英訳ではIt so chanced that she came to Qara-Qorum, where she was a procuress in the marketと訳される(Boyle 1958,pp.244-245)。
  4. ^ 佐口1968,pp.214-215
  5. ^ a b c d e f g h i j Rawshan 1373,pp.799-800/Thackston 2012,pp.276-277/余大鈞・周建奇1985,pp.209-211
  6. ^ 佐口1968,p215
  7. ^ 漢文史料上では、アブドゥッラフマーンについて後の包銀制につながる新税制を導入したことが諸史料に記録されている。ただし、漢文史料上ではいつ頃アブドゥッラフマーンがヤラワチに取って代わったのか明記されず、漠然とオゴデイの治世末期からグユク即位の頃までであることが読み取れるくらいである。安部健夫はヤラワチの失脚をオゴデイの治世末期のこととする那珂通世説を退けてオゴデイ没後にアブドゥッラフマーンとの政争に敗れて失脚したとする『新元史』の記述に従うべきであると考察したが、結果的に安部説はペルシア語史料の記述とも合致する。
  8. ^ 本田1991,p113
  9. ^ 佐口1968,p214
  10. ^ 佐口1968,pp.221-222
  11. ^ a b c 佐口1968,p256
  12. ^ a b c d 志茂2021,pp.548-549
  13. ^ なお、後世のモンゴル年代記では「コデンが病に罹ったとき、チベット仏教僧のサキャ・パンディタがこれを治したため、両者は施主・帰依処関係を結んだ」との伝承が記される。この伝承がそのまま史実とは考えにくいが、この伝承の元となったの『世界征服者史』が語るようにグユク即位直後にコデンが病にかかったことにあるとみられる。なお、『蒙古源流』はサキャ・パンティタがコデンを治した歳を1247年丁未)としているが、これはグユク即位の翌年のことであり、グユク即位後にファーティマの呪詛によってコデンが体調を崩したとする『世界征服者史』の記述と合致する(周2001,p347)
  14. ^ Golev 2017,p142
  15. ^ Golev 2017,p143
  16. ^ 志茂2021,pp.552-553
  17. ^ Golev 2017,p140
  18. ^ Golev 2017,pp.141-142
  19. ^ 訳文は高田2019,42-43頁より引用
  20. ^ Golev 2017,p134

参考文献[編集]

  • C.M.ドーソン著、佐口透訳注『モンゴル帝国史 2』(東洋文庫 128)平凡社、1968年
  • 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会、1991年
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』講談社現代新書/講談社、1996年
  • 高田英樹『原典 中世ヨーロッパ東方記』名古屋大学出版会、2019年
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 完篇』東京大学出版会、2021年
  • 周清樹『元蒙史札』内蒙古大学出版社、2001年
  • Konstantin Golev, Witchcraft and Politics in the Court of the Great Khan: Interregnum Crises and Inter-factional Struggles among the Mongol Imperial Elite. The Case of Fāṭima Khatun Annual of medieval studiesat ceu VOL. 23 2017
  • ジュヴァイニー『世界征服者史』(Tārīkh-i Jahān-gushāy
    • (校訂本) Muʾassasah-ʾi Intishārāt-i Amīr Kabīr,Tahrīr novīn Tārīkh-i Jahān-gushāy Juvainī , Tihrān 1378 [1999 or 2000]
    • (英訳) John Andrew Boyle (tr.), The History of the World-Conqueror, 2 vols., Manchester 1958
  • ラシードゥッディーン『集史』(Jāmiʿ al-Tavārīkh
    • (校訂本) Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, Jāmiʿ al-Tavārīkh, (Tihrān, 1373 [1994 or 1995])
    • (英訳) Thackston, W. M, Classical writings of the medieval Islamic world v.3, (London, 2012)
    • (中訳) 余大鈞・周建奇訳『史集 第2巻』商務印書館、1985年

関連項目[編集]