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2023年12月4日 (月) 13:32時点における版
概要
終末期の患者や老人は、家族の負担や社会的要因から延命のための治療を拒否して死を早める義務があるということを感じるという概念[1]。
死ぬ権利と死ぬ義務という類似した2つの概念があるが、死ぬ権利については欧米でも日本でも支持率が高かったが、死ぬ義務については欧米では支持率が高かったが日本では低かった[1]。
安楽死・尊厳死法制化を阻止する会によれば、尊厳死を法制化するということは人に死ぬ義務を課し、弱者に死の選択を迫る権利を周囲の者に与えることであると主張する[2]。
菅谷昭によって書かれた文章では、これからの日本は超高齢化社会になり、このことから老人に費やす医療費が膨大になり、更には介護や福祉にかかる費用も膨大になる。このため少子化である若い世代に負担を負わせて良いのかと思えば死ぬ義務という言葉がちらつくとある[3]。
John Hardwigによって書かれた文章では、医学が更に進歩して現在には致死に至る病気である癌や心臓発作や脳卒中なども完全に治療可能になったならば、人間は痴呆か衰弱状態まで生きながらえるようになるだろう。だがこのような医学の進歩の結果、広範囲にわたって死ぬ義務が発生することがありうるとある[3]。
Richard Lammの1984年の発言では、限られた医療費ではこれから先も増加を続けるコストを支え続けることは不可能である。何らかの形で資源の割り当てに制限が設けられなければ社会全体が破綻する。救命ボートの思想に基づき、終末期の病を患う高齢者には死ぬ義務があり、後に続く者に道を明け渡す義務がある。すなわち自分の子供たちが無理をせずとも暮らしていけるようにする義務があると述べた[3]。
曽野綾子は2016年に週刊誌で高齢者は適当な時期に死ぬ義務を忘れていませんかという記事を書いた。自分の身の回りのこともできなくなって命の危険の迫った老人は、無理して延命せずに死を迎えるべきではないか、死を覚悟する教育も必要であるようなことを書いていた[4]。
脚注
- ^ a b 恵美子, 小西; アンj, デービス (2000). “死ぬ権利と死ぬ義務: 日本、欧米の医療者・生命倫理学者の意識”. 生命倫理 10 (1): 84–91. doi:10.20593/jabedit.10.1_84 .
- ^ “在宅死推進政策にもの申す!−「尊厳死」の欺瞞(ぎまん) 第3回”. hajime-clinic (2014年11月1日). 2023年12月4日閲覧。
- ^ a b c “いつ、だれが、なぜ<死ななけれ ばならない>のか”. 京都大学. 2023年12月4日閲覧。
- ^ 彩子, 梶井 (2016年2月13日). “批判するなら元記事くらい読もう”. アゴラ 言論プラットフォーム. 2023年12月4日閲覧。