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http://www.chiefacoins.com/Database/Countries/Kashmir.htm |
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{{基礎情報 過去の国 |
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|略名 = |
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|日本語国名 = カシュミール・スルターン朝 |
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|公式国名 = Kashmir Sultanate |
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|建国時期 = 1339年 |
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|亡国時期 = 1586年 |
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|先代1 = |
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|先旗1 = |
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|国歌 = |
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|位置画像説明 = |
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|位置画像幅 = |
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|公用語 = [[ペルシア語]]、[[カシュミール語]] |
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|首都 = [[シュリーナガル]] |
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|元首等肩書 = [[スルターン]] |
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|元首等年代始1 = |
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|元首等年代終1 = |
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|変遷1 =成立 |
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|変遷年月日1 = [[1336年]] |
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|変遷2 =滅亡 |
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|変遷年月日2 = [[1586年]] |
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|通貨 = |
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|通貨追記 = |
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|時間帯 = |
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|夏時間 = |
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|ccTLD = |
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|国際電話番号 = |
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|注記 = |
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'''カシュミール・スルターン朝'''(カシュミール・スルターンちょう, [[英語]]:Kashmir Sultanate)は、[[北西インド]]の[[カシミール|カシュミール地方]]を支配した王朝([[1339年]] - [[1586年]])。首都は[[シュリーナガル]]。 |
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==歴史== |
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[[カシュミール]]地方には古くから[[ヒンドゥー王朝]]が成立していた。[[11世紀]]から[[12世紀]]にかけて、この王朝では[[トルキスタン]]や[[ホラーサーン]]出身のトルコ人傭兵が雇われていた<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.132-133</ref>。 |
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また、[[13世紀]]から[[14世紀]]にかけては、カシュミールは西方の経路によって中央アジアに繋がっていたため、[[モンゴル帝国]]の侵略を幾度となく受けた<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133</ref>。とはいえ、南方に存在した[[デリー・スルターン朝]]はこの王朝には積極的な働きかけ行わなかった<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.132</ref>。 |
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[[1339年]](あるいは[[1346年]])、ムスリムの宰相[[シャー・ミール]]がヒンドゥー王朝から王位を簒奪し、シャムスッディーンの称号のもと王座につき、カシュミール・スルターン朝を創始した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160</ref><ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133</ref>。この人物の出自は[[テュルク系]]とも[[アフガン系]]ともいわれるが、その出自はいまだに明らかではない<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133</ref>。この人物の王統はシャー・ミール朝と呼ばれている。 |
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この王朝の注目すべき点は、[[14世紀]]にようやくムスリム王朝が成立したこと、北インドのトルコ系ムスリムの動向とは無関係に成立したことである。また、この王朝は他の地方王朝と違い、デリー・スルターン朝(当時は[[トゥグルク朝]])の征服地ではない地域に成立したものである<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133</ref> |
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[[14世紀]]末に統治をはじめた[[シカンダル (カシュミール・スルターン朝)|シカンダル]]はイスラーム教の熱烈な信者であり、ヒンドゥー教を弾圧、その寺院や群像を破壊したため、「偶像破壊者」の異名で知られた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160</ref><ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133</ref>。そのため、カシュミール地方のイスラーム化が大きく進行した<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133</ref>。とはいえ、彼は学者を手厚く保護し、西アジアから多くの学者がこの地へと移った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160</ref>。 |
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シカンダルの死後、その息子の[[アリー・シャー]]が王となったが、[[1420年]]に[[メッカ]]へと巡礼に行き、その弟[[ザイヌル・アービディーン (カシュミール・スルターン朝)|ザイヌル・アービディーン]]が後を継いだ。その治世はカシュミール・スルターン朝の黄金期ともいえる治世であった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160</ref>。 |
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ザイヌル・アービディーンは宗教的に寛容であった。彼は父の代に弾圧されたヒンドゥー教への保護も行い、人頭税を廃止し、新たなヒンドゥー寺院の建設を認めたばかりか、牛の屠殺も禁止した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160</ref>。 |
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ザイヌル・アービディーンの宮廷ではムスリムとヒンドゥーの文人らで賑わい、[[マハーバーラタ]]のみならず、王朝の歴史書[[ラージャランギニー]]をペルシア語に翻訳させた<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.134</ref>。また、中央アジアのサマルカンドに人を派遣し、製紙法や製本術を学ばせたり、他にも多くの技術を育成した。 |
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==脚注== |
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<references /> |
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==参考文献== |
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*{{Cite|和書|author =小谷汪之|authorlink =小谷汪之|translator=|title =世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―|publisher =山川出版社|date =2007年| isbn =}} |
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*{{Cite|和書|author =フランシス・ロビンソン|authorlink = フランシス・ロビンソン| translator=月森左知|title =ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)|publisher =創元社|date =2009年|isbn =}} |
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==関連項目== |
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*[[カシミール|カシュミール地方]] |
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{{デフォルトソート:かしゆみるするたんちよう}} |
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[[Category:カシュミール・スルターン朝]] |
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[[Category:インドの王朝]] |
2015年8月8日 (土) 03:14時点における版
http://indiancoinsgks.blogspot.jp/2015/01/brief-history-of-kashmir-sultanate-and.html https://books.google.co.jp/books?id=iSURfYHb8UcC&pg=PA45&lpg=PA45&dq=kashmir+sultanate%E3%80%80yusuf&source=bl&ots=goOQScHWOV&sig=EeQXjIPLtXAwGW7Yy9iE5xfByfo&hl=ja&sa=X&ved=0CEUQ6AEwB2oVChMIoPn-n4LXxgIVyiWUCh20Dwba#v=onepage&q=kashmir%20sultanate%E3%80%80yusuf&f=false http://www.chiefacoins.com/Database/Countries/Kashmir.htm http://www.chiefacoins.com/Database/Countries/Kashmir.htm
カシュミール・スルターン朝(カシュミール・スルターンちょう, 英語:Kashmir Sultanate)は、北西インドのカシュミール地方を支配した王朝(1339年 - 1586年)。首都はシュリーナガル。
歴史
カシュミール地方には古くからヒンドゥー王朝が成立していた。11世紀から12世紀にかけて、この王朝ではトルキスタンやホラーサーン出身のトルコ人傭兵が雇われていた[1]。
また、13世紀から14世紀にかけては、カシュミールは西方の経路によって中央アジアに繋がっていたため、モンゴル帝国の侵略を幾度となく受けた[2]。とはいえ、南方に存在したデリー・スルターン朝はこの王朝には積極的な働きかけ行わなかった[3]。
1339年(あるいは1346年)、ムスリムの宰相シャー・ミールがヒンドゥー王朝から王位を簒奪し、シャムスッディーンの称号のもと王座につき、カシュミール・スルターン朝を創始した[4][5]。この人物の出自はテュルク系ともアフガン系ともいわれるが、その出自はいまだに明らかではない[6]。この人物の王統はシャー・ミール朝と呼ばれている。
この王朝の注目すべき点は、14世紀にようやくムスリム王朝が成立したこと、北インドのトルコ系ムスリムの動向とは無関係に成立したことである。また、この王朝は他の地方王朝と違い、デリー・スルターン朝(当時はトゥグルク朝)の征服地ではない地域に成立したものである[7]
14世紀末に統治をはじめたシカンダルはイスラーム教の熱烈な信者であり、ヒンドゥー教を弾圧、その寺院や群像を破壊したため、「偶像破壊者」の異名で知られた[8][9]。そのため、カシュミール地方のイスラーム化が大きく進行した[10]。とはいえ、彼は学者を手厚く保護し、西アジアから多くの学者がこの地へと移った[11]。
シカンダルの死後、その息子のアリー・シャーが王となったが、1420年にメッカへと巡礼に行き、その弟ザイヌル・アービディーンが後を継いだ。その治世はカシュミール・スルターン朝の黄金期ともいえる治世であった[12]。
ザイヌル・アービディーンは宗教的に寛容であった。彼は父の代に弾圧されたヒンドゥー教への保護も行い、人頭税を廃止し、新たなヒンドゥー寺院の建設を認めたばかりか、牛の屠殺も禁止した[13]。
ザイヌル・アービディーンの宮廷ではムスリムとヒンドゥーの文人らで賑わい、マハーバーラタのみならず、王朝の歴史書ラージャランギニーをペルシア語に翻訳させた[14]。また、中央アジアのサマルカンドに人を派遣し、製紙法や製本術を学ばせたり、他にも多くの技術を育成した。
1470年、ザイヌル・アービディーンの50年に渡る治世が終わると、王朝は衰退に向かった[15]。政権内部の抗争に加え、パンジャーブ地方から度重なる侵攻により、王朝内は混乱が続いた[16][17]。
また、1540年にはムガル帝国の皇帝フマーユーンの親族ミールザー・ハイダル・ドゥグラトが侵略し、1551年までカシュミールはその統治下にあった[18][19]。
1561年、歴代君主の下で有力者を輩出してきたチャク部族によって王位を簒奪された[20]。この王統はチャク朝と呼ばれる。
1586年、フマーユーンの息子アクバルはこの地に遠征軍を送ると、カシュミール地方は併合され、王朝は滅亡した[21][22]。
脚注
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.132-133
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.132
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.134
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.134
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.134
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.134
- ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.134
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160
参考文献
- 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。
- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』創元社、2009年。