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'''コントロール・データ・コーポレーション''' ('''CDC''') は、[[スーパーコンピュータ]]の先駆者として有名なコンピュータ企業であった。
'''コントロール・データ・コーポレーション''' ('''CDC''') は、[[スーパーコンピュータ]]の先駆者として有名なコンピュータ企業であった。[[1960年代]]を通じて[[シーモア・クレイ]]が所属しており、最速のコンピュータを作り続けた。しかし[[1970年代]]にはクレイが同社を離れて[[クレイ|クレイ・リサーチ]] (CRI) を創業し、世界最速のタイトルを奪った。CDCは[[1960年代]]のメジャーなコンピュータメーカー9社のひとつであった(他は[[IBM]]、[[バロース]]、[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]、[[NCR (企業)|NCR]]、[[ゼネラル・エレクトリック|GE]]、[[ハネウェル]]、[[RCA]]、[[UNIVAC]])

[[1960年代]]を通じて最速のコンピュータを作り続けたが、[[1970年代]]に入って実質的なスピンオフがきっかけでその座を奪われた。
CDCは[[1960年代]]メジャーなコンピュータメーカー8社のひとつであった([[汎用コンピュータ]]の項を参照のこと)。


==背景と起源:第二次世界大戦から1957年まで ==
==背景と起源:第二次世界大戦から1957年まで ==
[[第二次世界大戦]]の間、[[アメリカ海軍]]は技術者を集めて日本軍とドイツ軍双方の[[機械式暗号|機械式暗号作成器]]で作成された[[暗号]]を解読するマシンの開発に当たらせた。
[[第二次世界大戦]]の間、[[アメリカ海軍]]は技術者を集めて日本軍とドイツ軍双方の[[機械式暗号|機械式暗号作成器]]で作成された[[暗号]]を解読するマシンの開発に当たらせた。その手のマシンは[[ワシントンD.C.]]に集められたチームが作り出した。戦後の軍事費削減の中で海軍はこのチームを解散させた場合の機密漏洩を危惧し、解散させずに済む方法を探し始めた。
その手のマシンは[[ワシントンD.C.]]に集められたチームが作り出した。
戦後の軍事費削減の中で海軍はこのチームを解散させた場合の機密漏洩を危惧し、解散させずに済む方法を探し始めた。


そして、ついに解決法が見つかった。[[セントポール (ミネソタ州)|ミネソタ州セントポール]]のChase Aircraftという会社に技術者たちを引き取ってもらうことで決着した。これにより Engineering Research Associates (ERA) 設立され1950年代初頭ま一見して関連ない様々なプロジェクト従事した。
そして、ついに解決法が見つかった。[[セントポール (ミネソタ州)|ミネソタ州セントポール]]の Chase Aircraft という会社に技術者たちを引き取ってもらうことで決着した。同社は終戦と共に軍との契約をほとんど失い困っていた。そでチームが何をしていたかを説明せず、単に彼らを雇ってくたら軍としては大変助かるとだけ述べた。当初は怪しんでいたが、打ち合わせのたび海軍のより高い地位の士官来るようになり真剣あることがわかった。結局同社は[[軍用グライダー]]工場をそチームの拠点とすること同意した。


これにより Engineering Research Associates (ERA) が設立され、1950年代初頭まで一見して関連のない様々なプロジェクトに従事した。そのうちのひとつは世界初の商用[[プログラム内蔵方式]]コンピュータ、36ビットの [[UNIVAC 1103|ERA 1103]] である。このマシンは海軍のために開発され、[[暗号解読]]センターで使うことを目的としていた。1950年代初頭に[[アメリカ合衆国議会|国会]]で海軍が実質的にERAを「所有」していることが問題とされた。その結果としてERAは海軍との関係を断たれ(資金の引き上げなど)、1952年にERAのオーナーは会社を[[レミントンランド]]社に売却した。
そのうちのひとつは世界初の商用[[ノイマン型|ストアドプログラム方式]]コンピュータである(48ビットの[[UNIVAC 1103|ERA 1103]])。
このマシンは海軍のために開発され、[[暗号解読]]センターで使うことを目的としていた。
1950年代初頭に国会で海軍が実質的にERAを所有していることが問題とされた。
その結果としてERAは海軍との関係を断たれ(資金の引き上げなど)、1952年にERAのオーナーは会社を[[レミントンランド]]社に売却した。


レミントンランド社はERAのチームを維持し新製品の開発を続けていた。Rand社が最も興味を抱いたのはERAの[[磁気ドラムメモリ]]システムである。Rand社は間もなく[[スペリー]]と合併し、ERA部門はスペリーの[[UNIVAC]]部門に吸収された。
レミントンランド社はERAのチームを維持し新製品の開発を続けていた。社が最も興味を抱いたのはERAの[[磁気ドラムメモリ]]システムである。レミントンランドは間もなく[[スペリー]]と合併しスペリーランドとなり、ERA部門はスペリーの[[UNIVAC]]部門に吸収された。当初ERAから来た人々は技術的才能を買われ、様々なプロジェクトに参加した。しかし、UNIVACからERAに任された {{仮リンク|UNIVAC II|en|UNIVAC II}} プロジェクトは遅れに遅れ、関わったほぼ全員が調子を狂わせた。

しかし、大企業の社風が合わなかったERAの技術者たちは辞職し、1957年にコントロール・データを[[ミネアポリス]]に設立する。
CDC設立メンバは満場一致で[[ウィリアム・ノリス]]を[[最高経営責任者]]に選出した。また、[[シーモア・クレイ]]はチーフデザイナーに選ばれたが、1103ベースの [[海軍戦術情報システム|Navy Tactical Data System (NTDS) ]]に関する仕事が続いていたため、それが完了するまでCDCに合流できなかった。
大企業の社風が合わなと感じたERAの技術者たちは辞職し、1957年にコントロール・データを[[ミネアポリス]]に設立する。CDC設立メンバは満場一致で[[ウィリアム・ノリス]]を[[最高経営責任者]]に選出した。また、[[シーモア・クレイ]]はチーフデザイナーに選ばれたが、1103ベースの [[海軍戦術情報システム]] (NTDS) に関する仕事が続いていたため、それが完了するまでCDCに合流できなかった。


== 初期の設計:クレイの大計画 ==
== 初期の設計:クレイの大計画 ==
CDCは主にドラムメモリシステムなどの部品を売ることから事業を開始した。
CDCは主に磁気ドラムメモリシステムなどのサブシステムを売ることから事業を開始した。クレイが翌年合流すると即座に[[トランジスタ]]ベースの6ビット小型マシン "Little Charactor" を開発した。これは、クレイが考えている大型のトランジスタベースマシンのアイデアに向けたテストでもあった。
クレイが翌年合流すると即座に[[トランジスタ]]ベースの6ビット小型マシン "Little Charactor" を開発した。これは、クレイが考えている大型のトランジスタベースマシンのアイデアに向けたテストでもあった。
Little Charactorは成功を収め、[[1959年]]、彼らは1103のトランジスタ版である CDC 1604 をリリースした。
CDC 1604の最初の完成品は[[1960年]]にアメリカ海軍に納入された。
12ビットにスケールダウンした CDC 160Aも1960年にリリースされる。
これがおそらく世界初の[[ミニコンピュータ]]である。
また、1604アーキテクチャの新バージョン CDC 3000 は1960年代中盤まで販売されることになる。


Little Charactorは成功を収め、[[1959年]]、彼らは1103を48ビット化したトランジスタ版である {{仮リンク|CDC 1604|en|CDC 1604}} をリリースした。CDC 1604の最初の完成品は[[1960年]]にアメリカ海軍に納入された。なお "1604" という番号は、以前にクレイが開発した "1103" にCDCの最初の所在地の番地 (501 Park Avenue) を足したものだという説がある<ref>当時のCDC従業員のインタビューである [http://purl.umn.edu/104327 Reminiscences of computer architecture and computer design at Control Data Corporation] の p.20 に記述があるが、それは単なる伝説だとして、p.21 に正式な由来の説明がある。</ref>。
クレイは世界最高性能のマシンの設計にとりかかった。その目標は1604の50倍の性能である。

そのためには大胆な設計変更が要求されプロジェクトには時間がかかった(実に四年間かかっている)。
[[File:CDC 3800 - Udvar-Hazy Center.JPG|thumb|right|CDC 3000 シリーズの制御卓]]
プロジェクトは経営も圧迫したため、クレイは1962年に辞職し自らの研究所を設立した。
12ビットにスケールダウンした {{仮リンク|CDC 160A|en|CDC 160A}} も1960年にリリースされる。これが世界初の[[ミニコンピュータ]]とされることが多い。160A は標準的なオフィス用机の形状であり、当時としては珍しいデザインだった。また、1604アーキテクチャの新バージョン {{仮リンク|CDC 3000|en|CDC 3000}} シリーズは1960年代中盤まで販売されることになる。
ノリスの承諾を得て、クレイはチームを引き連れて行った。

クレイは世界最高性能のマシンの設計にとりかかった。その目標は1604の50倍の性能である。そのためには大胆な設計変更が要求され、プロジェクトには時間がかかった(実に四年間かかっている)。経営陣はプロジェクトの動向を気にしはじめ、監視の目が厳しくなってきたため、クレイは1962年に自らの研究所設立を申し出て、認められなければ辞職すると言い出した。ノリスはこれを承諾し、クレイはチームを引き連れて行った。ノリスを含めたCDCの経営陣は、招待されない限りクレイの研究所を訪問できないという約束がかわされている<ref>招待されていないセールスマンがクレイの研究所を訪問した際の話が [http://www.travel-tidbits.com/tidbits/003654.shtml こちら]にある。</ref>。


== 周辺機器事業 ==
== 周辺機器事業 ==
1960年代を通して、ノリスは IBM に対抗していくことの変さますます感じるようになった。そのため、彼は周辺機器企業を買収してラインナップをそろえるという大胆な作戦を開始した。彼らはIBMより10%価格を安く設定し、10%性能の良いものを提供することを試みた。これは常に簡単というわけではなかった。
1960年代を通して、ノリスは IBM に対抗するには何か重なもの開発る必要があると感じるようになっていった。そのため、彼は周辺機器企業を買収してラインナップをそろえるという大胆な作戦を開始した。彼らはIBMより10%価格を安く設定し、10%性能の良いものを提供することを試みた。これは常に簡単というわけではなかった。


最初の周辺機器の1つに磁気テープ装置がある。周辺機器部門はこの開発にあたって社内の他部門にコストを分担させようとしたため、ちょっとした議論が発生した。もし原価相当の価格で他部門に機器を供給すれば、周辺機器部門は利益を得る方法がないことになる。代わりに周辺機器部門は、周辺機器が売れた際の利益の一部を還元してもらうことで決着し、以後その方式が定着した。
最初の周辺機器の1つに磁気テープ装置がある。周辺機器部門はこの開発にあたって社内の他部門にコストを分担させようとしたため、ちょっとした議論が発生した。もし原価相当の価格で他部門に機器を供給すれば、周辺機器部門は利益を得る方法がないことになる。代わりに周辺機器部門は、周辺機器が売れた際の利益の一部を還元してもらうことで決着し、以後その方式が定着した。


その後、カードリーダ、カードパンチ、[[ストリーマ]]、ドラム式[[プリンター]]など、全て自社設計のものが開発されていった。当初、プリンター事業は Holley Carburetor 社が実際の製造を行った後に合弁会社 Holley Computer Products 社を設立することとなったHolley は保有株を CDC に後に売却し、Rochester 部門(Rochester は所在地)としてCDCに編入された。
その後、カードリーダ、カードパンチ、[[ストリーマ]]、ドラム式[[プリンター]]など、全て自社設計のものが開発されていった。当初、プリンター事業は[[デトロイト]]近郊の[[ホーリー・パフォーマンス・プロダクツ|ホーリー・キャブレータ]]が実際の生産を行っていが、後に合弁会社を設立。さらにホーリーは保有株をCDCに売却し、プリンター部門としてCDCに編入された。


ノリスは IBM が支配する[[パンチカード]]に代わる入力手段を模索していた。彼は[[光学文字認識]] (OCR) システムのパイオニアである Rainbow Engineering 社を買収することにした。そのアイデアは、オペレータが決まったフォントのタイプライターで普通に打ち込んだものを OCR で読み込むことでパンチカードを不要にするというものであった。タイプされたページ1枚にはパンチカード1枚より遥かに大量の情報が含まれる(パンチカードは基本的にタイプの1行ぶんの情報しかない)。従って、紙の節約にもなる。しかし、これは思ったよりも困難な転換だった。CDC は初期の OCR システムで重要な役割を演じたが、今日に至るまで OCR が主要なデータ入力手段になったことはない。Rainbow の工場は 1976 年に操業停止し、CDC もその事業を止めた。
ノリスは IBM が支配する[[パンチカード]]に代わる入力手段を模索していた。彼は[[光学文字認識]] (OCR) システムのパイオニアである Rainbow Engineering 社を買収することにした。そのアイデアは、オペレータが決まったフォントのタイプライターで普通に打ち込んだものを OCR で読み込むことでパンチカードを不要にするというものであった。タイプされたページ1枚にはパンチカード1枚より遥かに大量の情報が含まれる(パンチカードは基本的にタイプの1行ぶんの情報しかない)。従って、紙の節約にもなる。しかし、これは思ったよりも困難な転換だった。CDC は初期の OCR システムで重要な役割を演じたが、今日に至るまで OCR が主要なデータ入力手段になったことはない。Rainbow の工場は 1976 年に操業停止し、CDC もその事業を止めた。
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ノリスは、コンピュータを購入できない中小企業向けに計算サービスを提供するオフィスをあちこちに展開した。この事業はあまり利益を生まなかった。1965年ごろ、何人かの管理職が利益の出ていないオフィスを閉鎖することをノリスに提案した。しかし、ノリスはこのアイデアを気に入っていたため、その提案を受け入れず、代わりに全体的な倹約を指示した。
ノリスは、コンピュータを購入できない中小企業向けに計算サービスを提供するオフィスをあちこちに展開した。この事業はあまり利益を生まなかった。1965年ごろ、何人かの管理職が利益の出ていないオフィスを閉鎖することをノリスに提案した。しかし、ノリスはこのアイデアを気に入っていたため、その提案を受け入れず、代わりに全体的な倹約を指示した。


==CDC 6600:スーパーコンピュータの誕生 ==
== CDC 6600:スーパーコンピュータの誕生 ==
[[ファイル:Personable Computer.jpg|thumb|right|250px|CDC 6600]]
シーモア・クレイと33人の技術者は新しい研究所で設計を続行した。
1964年、その成果は[[CDC 6600]]としてリリースされ、市場に存在するあらゆるマシンと比較して10倍の性能を誇った。
6600のCPUは単純であったが、いくつかの[[チャネル・コントローラ|I/Oプロセッサ]]が接続されていて多くの一般的なタスク負荷を受け持っていた。そのためCPUは穿孔カードやディスク入出力といったありふれた仕事をコントローラに任せて、[[データ処理]]に専念することができる。最新のコンパイラでは0.5MFLOPSの性能、アセンブラでコードを書くと約1M[[FLOPS]]の性能を記録した。
これは時代を考えると驚異的な数字である。
性能を落としたバージョン CDC 6400 と 2プロセッサバージョン 6500 もリリースされた。


一方、シーモア・クレイと34人の技術者は新しい研究所で設計を続行した。1964年、その成果は [[CDC 6600]] としてリリースされ、市場に存在するあらゆるマシンと比較して10倍以上の性能を誇った。6600の[[CPU]]は複数の非同期な機能ユニットで構成され、10個の[[チャネル・コントローラ|I/Oプロセッサ]]が接続されていて多くの一般的なタスク負荷を受け持っていた。そのためCPUは穿孔カードやディスク入出力といったありふれた仕事をコントローラに任せて、[[データ処理]]に専念することができる。最新の[[コンパイラ]]では0.5M[[FLOPS]]の性能、アセンブラでコードを書くと約1M[[FLOPS]]の性能を記録した。これは時代を考えると驚異的な数字である。性能を落としたバージョン CDC 6400 と 2プロセッサバージョン 6500 もリリースされた。
6600が出荷されると、[[IBM]]はこの新しい会社に注目した。[[1965年]]、IBMは 6600 よりも高速なマシン(ACS)を開発しようとした。
200人がこのプロジェクトのために集められた。このプロジェクトは面白いアーキテクチャと技術を生み出したが、それはIBMの[[System/360]]とは互換性がなかった。
System/360互換となるよう方向転換が図られたが、そのために性能が低くなり、プロジェクトは何も製品を生み出せないまま[[1969年]]に中止された。


6600向けに MNF (Minnesota Fortran) という[[FORTRAN]]コンパイラが、[[ミネソタ大学ツインシティー校|ミネソタ大学]]で開発されている<ref>{{Cite journal|journal=Communications of the ACM|last=Frisch|first=Michael|title=Remarks on Algorithms|date=Dec 1972|volume=15|issue=12|page=1074}}</ref>。
短期間ではあるがIBMは先走って6600と同等性能のSystem/360シリーズの新バージョンを発表した。このマシンは実在しなかったが、人々がそのリリースを待って6600の売り上げがストップするまで取り消さなかった(今日では[[FUD]]と名づけられているマーケティング手法である)。ノリスはこの嘘を放っておかず、1年後にIBMを反トラスト法違反で訴えた。

結局、CDCは600万ドルとIBMの子会社である Service Bureau Corporation を手に入れた。
6600が出荷されると、[[IBM]]はこの新しい会社に注目した。[[トーマス・J・ワトソン・ジュニア]]は「この門番を入れても34人しかいない小さな会社が数千人を抱える我が社を打ち負かしたのはどうしたわけだ?」と言ったと伝えられている。これを耳にしたクレイは「その質問の中に答えがあるじゃないか」と言ったという。[[1965年]]、IBMは 6600 よりも高速なマシン {{仮リンク|ACS-1|en|ACS-1}} の開発プロジェクトを開始した。200人がこのプロジェクトのために集められた。このプロジェクトは面白いアーキテクチャと技術を生み出したが、それはIBMの[[System/360]]とは互換性がなかった。System/360互換となるよう方向転換が図られたが、そのために性能が低くなり、プロジェクトは何も製品を生み出せないまま[[1969年]]に中止された。そのためこれに関わった多くの技術者がIBMを退職し、IBMの高性能コンピュータ部門から頭脳が失われた。

一方でIBMは先走って6600と同等性能のSystem/360シリーズの新バージョン Model 92 を発表した。このマシンは実在しなかったが、人々がそのリリースを待って6600の売り上げがストップするまで取り消さなかった(今日では[[FUD]]と名づけられているマーケティング手法である)。ノリスはこの嘘を放っておかず、1年後にIBMを[[独占禁止法|反トラスト法]]違反で訴えた。結局、CDCは8000万ドル相当のIBMの資産を手に入れた<ref>[http://purl.umn.edu/107431 Oral history interview with Richard G. Lareau], Charles Babbage Institute, University of Minnesota.</ref>。その中でノリスは Service Bureau Corporation (SBC) に注目した。同社はコンピュータを所有して他の企業に計算能力を提供していた。これはノリスが進めていた計算サービス事業にうまくはまった<ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,903788,00.html "COMPUTERS: A Settlement for IBM"], ''Time'' magazine, Monday, Jan. 29, 1973.<blockquote>「訴訟を取り下げる見返りとして、CDCは多くのものを勝ち取った。約1600万ドルでIBMの Service Bureau Corp. を獲得。同社は所有するコンピュータのCPU時間を顧客に売ってデータ処理を行うサービスを提供している。ウォール街のアナリストは、同社の市場価値を約6000万ドルと見積もっている。さらにIBMは同社から5年間サービスを購入し、6年間は同様のサービスを立ち上げないことで、CDCが費やした弁護士費用1500万ドルを相殺するという。したがってIBMが支払う総額は少なくとも8000万ドルとなる。CDCのワンマン会長ウィリアム・ノリスは、大胆な訴訟が「我が社の歴史上最善の経営判断の1つになった」と語った」<blockquote/></ref>。

6600設計の過程で、CDCは同システムに高速[[磁気ディスク装置]]システムを提供するSPINプロジェクトを実施した。当時磁気ディスクが磁気ドラムメモリに取って代わるかどうかは不明であり、ディスクも固定型とリムーバブル型のどちらがよいのか不明だった。そのためSPINプロジェクトではあらゆる選択肢を試し、最終的に28インチ固定ディスク型と14インチのパック型を生み出した。その後、SPINプロジェクトに端を発したハードディスク事業がCDCの主力となっていく。


== CDC 7600 と 8600 ==
== CDC 7600 と 8600 ==
IBMに勝利したのと同じ月に、CDCは新たなマシン [[CDC 7600]] を発表した。
IBMに勝利したのと同じ月に、CDCは新たなマシン [[CDC 7600]] を発表した。クロック周波数を6600の約4倍とし(10MHz⇒36MHz)、システム全体としても4倍以上のスループットを実現している
クレイは 6600 出荷前から設計を開始しており、そのデザインは十分に練られ、6600の10倍の性能をたたき出した。
性能向上の決め手は[[パイプライン処理|パイプライン技術]]である。
しかしあまりに複雑な設計であったため信頼性に乏しく、まもなく7600プロジェクトは中止された。
これによりCDCは評判を落としてしまった。


性能向上の決め手は[[命令パイプライン]]の採用であり、CPU内の各部がそれぞれ次々に命令を処理していくことで同時に複数命令を処理可能としている。そのため、1命令の処理時間が同じであっても、全体としてスループットが向上し、プログラムの実行時間が短縮される。
クレイは[[CDC 8600]]にとりかかった。

8600 は基本的には 7600 を 4台、より小さな筐体に入れたものである。
7600が登場した1969年はアメリカ国内の景気後退期だったため、市場での反応は芳しくなかった。またあまりに複雑な設計だったため、信頼性に問題を生じた。6000シリーズとも完全な互換性がなく、OSはほとんど新たに作られ、しかも基本的な機能しか備えていなかった。7600プロジェクトは採算は何とかとれたが、CDCの評判を落とす結果となった。
サイズを縮小して信号経路を短くすることにより 8600 はさらに高いクロック周波数で動作でき、高速なメモリと組み合わせることで性能を向上させるはずだった。しかし、8600は従来からの製造方法をとった。つまり部品を基板に半田付けしていた。半田付け箇所があまりに多かったため、一箇所が接触不良になっていてもマシンは動かず、結果として一度もちゃんと動作しなかった。

クレイは設計のやり直しが必要だと決断した。
クレイは[[CDC 8600]]にとりかかった。8600 は基本的には 7600 を 4台、より小さな筐体に入れたものである。サイズを縮小して信号経路を短くすることにより 8600 はさらに高いクロック周波数で動作でき、高速なメモリと組み合わせることで性能を向上させるはずだった。しかし、8600は従来からの製造方法をとった。つまり部品を基板に半田付けしていた。半田付け箇所があまりに多かったため、一箇所が接触不良になっていてもマシンは動かず、結果として一度もちゃんと動作しなかった。クレイは設計のやり直しが必要だと決断した。


== STAR と Cyber ==
== STAR と Cyber ==
8600の再設計に加えて、CDCは[[CDC STAR-100|STAR]]と呼ばれるプロジェクトを抱えていた。STARは6600/6700でクレイと共に働いたジム・ソーントンが主導していた。STARのデザインは現在では[[ベクタープロセッサ]]と呼ばれている手法を使ったもので数値演算のみを非常に長いパイプラインで処理するというものである。
8600の再設計に加えて、CDCは[[CDC STAR-100|STAR]]と呼ばれるプロジェクトを抱えていた。STARは6600/6700でクレイと共に働いたジム・ソーントンが主導していた。STARのデザインは現在では[[ベクトル計算機|ベクタープロセッサ]]と呼ばれている手法を使ったもので数値演算のみを非常に長いパイプラインで処理するというものである。これにより数値演算は極めて高速化されるが、それ以外は7600よりずっと遅かった。実際CDCの顧客が求めているのは数値演算の高速性であったため、それは大きな問題とはみなされなかった。STARのベクタは64ビット幅で65,536の長さを持っていた
これにより数値演算は極めて高速化されるが、それ以外は7600よりずっと遅かった。
実際CDCの顧客が求めているのは数値演算の高速性であったため、それは大きな問題とはみなされなかった。
STARのベクタは64ビット幅で65,536の長さを持っていた。


1960年代終盤、CDCはこのふたつのプロジェクトを同時進行させるほどの資金力はなかった。ノリスはクレイと話し合い、クレイは1972年に[[クレイ|クレイ・リサーチ]]を設立する。ノリスはその後もクレイを援助し続けた。8600は[[1974年]]に中止され、STARは同年 Cyber 203 としてリリースされた。ところがSTARは実際のユーザプログラムではまったく性能を出せなかった。ジム・ソーントンはCDCを辞め、[[:en:Network Systems Corporation|Network Systems Corporation]] を創業することになる。
1960年代終盤、CDCはこのふたつのプロジェクトを同時進行させるほどの資金力はなかった。
ノリスはクレイと話し合い、クレイは1972年に[[クレイ|クレイ・リサーチ]]を設立する。
ノリスはその後もクレイを援助し続けた。
8600は[[1974年]]に中止され、STARは同年 Cyber 203 としてリリースされた。
ところがSTARは実際のユーザプログラムではまったく性能を出せず、ジム・ソーントンは解雇されてしまった。


CDCは6600/6700アーキテクチャを基本としてパッケージし直して [[CDC Cyber]]シリーズとして販売していく。
CDCは6600/7600アーキテクチャを基本としてパッケージし直して {{仮リンク|CDC Cyber|en|CDC Cyber}} シリーズとして販売していく。これがCDCの1970年代の主製品であった。CyberシリーズにはSTARの焼き直し版 Cyber 205 も投入され、こちらはオリジナルとは違ってそれなりに高性能であった。しかし、そのころクレイは[[Cray-1]]のようなSTARの手法も取り入れたマシンを出しており、極めて計算性能が高かった
これがCDCの1970年代の主製品であった。
CyberシリーズにはSTARの焼き直し版も投入され、こちらはオリジナルとは違ってそれなりに高性能であった。
しかし、そのころクレイは[[Cray-1]]のようなSTARの手法も取り入れたマシンを出しており、Cyberシリーズは性能では勝てなかった。
その後、CDCのリリースしたCyber 200/205は特定分野ではクレイ社と互角に戦える性能だった。


CDCのリリースした Cyber 200/205 は特定分野ではクレイ社と互角に戦える性能だった。CDCは顧客の様々なプロジェクトに参加しており、軍のプロジェクト [[:en:black project|black project]] にも参加している。その成果の1つとして、[[:en:CDC Cyber#Cyberplus or Advanced Flexible Processor (AFP)|CDC Advanced Flexible Processor]] (AFP) またの名を Cyberplus がある。
CDCは顧客の要望に応じて様々なプロジェクトに投資していったが、一部は失敗した。


もう1つの設計の方向性として "Cyber 80" プロジェクトがある。これは6600のプログラムを実行できるがアーキテクチャは全く新たな64ビットである。1980年のリリースを目指していた。これは6000シリーズのユーザーの買い替えを期待したものだった。プロジェクトは遅延し、最終的には別の名でリリースされた。
== ETA Systems、ハードディスク、そして忘却のかなたへ ==

[[File:Platovterm1981.jpg|thumb|right|PLATO端末 (1981)]]
また、ハードウェア依存からサービス中心の事業形態への転換を図った。例えば、コンピュータを使用した学習システム {{仮リンク|PLATO|en|PLATO (computer system)}} の開発がある。Cyberシステム上で動作し、ビットマップ方式のタッチスクリーンを備えた端末など最新のユーザインタフェースを採用していた。

== ETAシステムズ、ハードディスク、そして忘却のかなたへ ==
CDCは再び性能に挑戦しようとしていた。しかしノリスはCDCがすばやくよい設計を作り出すには組織として硬直化しすぎていると考えていた。そこで彼は新たなスピンオフ会社[[ETAシステムズ]]を1983年に設立した。ETAの設計目標は10GFLOPS、Cray-1の40倍の性能である。ETAは目標を達成することはできなかったが、一時的に世界最高性能の栄冠を手にし、翌年には若干の売り上げもあった。CDCはETAを売ることで損失を補填することも検討したが、1989年ほとんどの従業員を解雇し、残った従業員はCDCで再雇用した。
CDCは再び性能に挑戦しようとしていた。しかしノリスはCDCがすばやくよい設計を作り出すには組織として硬直化しすぎていると考えていた。そこで彼は新たなスピンオフ会社[[ETAシステムズ]]を1983年に設立した。ETAの設計目標は10GFLOPS、Cray-1の40倍の性能である。ETAは目標を達成することはできなかったが、一時的に世界最高性能の栄冠を手にし、翌年には若干の売り上げもあった。CDCはETAを売ることで損失を補填することも検討したが、1989年ほとんどの従業員を解雇し、残った従業員はCDCで再雇用した。


一方、日本の[[NEC]]や[[富士通]]といった大企業がその市場に参入し始めていた。[[スーパーコンピュータ]]市場はそれほど大きくはない。CDCは他の市場を捜し求めた。見つけたのは高性能[[ハードディスク]]市場である。1980年代中ごろ、[[パーソナルコンピュータ]]にハードディスクが搭載されはじめており、有望な市場であった。1970年代から1980年代初めにかけて、CDCは14インチディスクドライブの市場では[[OEM]]などでトップの座を占めていた。[[シュガートアソシエイツ]]が切り拓いた8インチディスクドライブ市場にもいち早く進出。特に高性能ハードディスクで大きな地位を占めるようになった。しかし、新企業の参入により大容量化・高性能化が急速に進み、CDCはそれに遅れをとるようになっていく。[[コンパック]]や[[ウェスタン・デジタル]]と共に[[Advanced Technology Attachment|ATA]]規格を開発したのもCDCである。
一方、日本の[[NEC]]や[[富士通]]といった大企業がその市場に参入し始めていた。

スーパーコンピュータ市場はそれほど大きくはない。
奇妙なことに1988年にCDCはハードディスク部門をスピンオフさせ、'''Imprimis''' という会社にした。翌年、ハイエンド市場への足がかりを求めていた[[シーゲイト・テクノロジー]]がImprimisを買収。CDCのコンピュータ部門は'''コントロール・データ・システムズ'''と改称、[[BTグループ]]の傘下に入り、BTのグローバルサービス部門に吸収された。
CDCは他の市場を捜し求めた。

見つけたのは高性能[[ハードディスク]]市場である。1980年代中ごろ、[[パーソナルコンピュータ]]にハードディスクが搭載されはじめており、有望な市場であった。1990年代初めにはCDCはハードディスク市場、特に高性能ハードディスクで大きな地位を占めていた。
CDCの中でもエネルギー管理部門は最も成功していおり、世界の発電所の25%で管理ソリューションを提供していた。1988年か1989年、これを Empros として独立させ、後に[[シーメンス]]に売却した。
[[コンパック]]や[[ウェスタン・デジタル]]と共に[[Advanced Technology Attachment|ATA]]規格を開発したのもCDCである。

CDCのサービス事業は1992年にスピンオフされ、{{仮リンク|Ceridian|en|Ceridian}} となった。同社は人事関係などのITアウトソース企業として成功している。Ceridian は1997年、CDC時代に政府関係のシステムを開発していた部門を[[ジェネラル・ダイナミクス]]に売却した。


=== シティグループとの関係 ===
奇妙なことに1992年にCDCはハードディスク部門を[[シーゲイト・テクノロジー]]に売却してしまった。シーゲイトは現在では[[ハイエンド]]のハードディスク市場では苦戦している。CDCのコンピュータ部門は[[BTグループ]]の傘下に入り Syntegra(コンサルティング会社)となった。また、コンピュータ以外の部門は Ceridian Corporation(人材派遣会社)となった。
[[シティグループ]]は1998年、シティコープとトラベラーズ・グループが合併して誕生した。トラベラーズ・グループは{{仮リンク|サンフォード・I・ワイル|en|Sanford I. Weill|label=サンディ・ワイル}}が1986年にCDCの子会社 Commercial Credit を買収し、それを中核として築いたものである。Comercial Credit は元々独立した企業だったが、1968年に敵対的買収をされそうになり、CDCが資金を提供して買収に対抗したという経緯があった<ref name="Price">{{Cite book|last=Price|first=Robert|title=The Eye for Innovation: Recognizing Possibilities and Managing the Creative Enterprise|publisher=Yale University Press|location=New Haven, Ct|date=2005-11-11|edition=1|volume=11|pages=168|isbn=978-0300108774|url= http://yalepress.yale.edu/yupbooks/book.asp?isbn=0300123701}}</ref>。


== 映画の登場 ==
== 映画やテレビドラマでの登場 ==
* 『[[地球爆破作戦]]』(1970): 冒頭に磁気テープ装置など初期のCDCの装置が出てくる。
* 『[[トロン (映画)|トロン]]』: フリンとローラがエンコム社に侵入するシーンに登場する計算機室で [[CDC 7600]] が背景に映っている。これは[[ローレンス・リバモア国立研究所]]で撮影された。
* 『[[600万ドルの男]]』のパイロット版 (1973): OSIの研究所のコンピュータに "Control Data" というロゴがある。
* 『[[ダイ・ハード]]』: 計算機室に CDC Cyber 180 数台の実物と [[ETAシステムズ|ETA-10]] のモックアップが映っており、これらは全て CDC Demonstration Services/Benchmark Lab から提供されたものであった。撮影直前に別のメーカーにキャンセルされ、短期間で貸し出しが決まった。なお、マシンは返却後テストされ通常通り売られた。
* 『{{仮リンク|おかしなおかしな大泥棒|en|The Thief Who Came to Dinner}}』(1973): [[ライアン・オニール]]がCDCをクビになった主人公を演じている。
* 『[[ゼイリブ]]』: 主人公がサングラスを初めてかけたとき、CDC の広告を見ると、そこには "OBEY"(服従せよ)という文字が見えた。
* 『[[トロン (映画)|トロン]]』(1982): フリンとローラがエンコム社に侵入するシーンに登場する計算機室で [[CDC 7600]] が背景に映っている。これは[[ローレンス・リバモア国立研究所]]で撮影された。
* 『[[ダイ・ハード]]』(1988): 計算機室に CDC Cyber 180 数台の実物と [[ETAシステムズ|ETA-10]] のモックアップが映っており、これらは全て CDC Demonstration Services/Benchmark Lab から提供されたものであった。撮影直前に別のメーカーにキャンセルされ、短期間で貸し出しが決まった。なお、マシンは返却後テストされ通常通り売られた。
* 『[[ゼイリブ]]』(1988): 主人公がサングラスを初めてかけたとき、CDC の広告を見ると、そこには "OBEY"(服従せよ)という文字が見えた。


== 脚注・出典 ==
{{Reflist}}


==参考文献==
== 参考文献 ==
* Lundstrom, David. ''A Few Good Men from Univac''. Cambridge, Massachusetts: MIT Press, 1987. ISBN 0262121204.
* Lundstrom, David. ''A Few Good Men from Univac''. Cambridge, Massachusetts: MIT Press, 1987. ISBN 0262121204.
* Murray, Charles, and John Wiley. ''The Supermen: The Story of Seymour Cray and the Technical Wizards behind the Supercomputer''. New York: John Wiley, 1997. ISBN 0471048852.
* Murray, Charles, and John Wiley. ''The Supermen: The Story of Seymour Cray and the Technical Wizards behind the Supercomputer''. New York: John Wiley, 1997. ISBN 0471048852.
* Price, Robert M. ''The Eye for Innovation: Recognizing Possibilities and Managing the Creative Enterprise''. New Haven, Connecticut: Yale University Press, 2005. ISBN 030010877X.
* Price, Robert M. ''The Eye for Innovation: Recognizing Possibilities and Managing the Creative Enterprise''. New Haven, Connecticut: Yale University Press, 2005. ISBN 030010877X.
* Worthy, James C. ''William C. Norris: Portrait of a Maverick''. Ballinger Pub Co., May 1987. ISBN 978-0887300875


==関連項目==
== 関連項目 ==
*[[CYBERNET]]
*[[CYBERNET]]


==外部リンク==
==外部リンク==
* [http://purl.umn.edu/41182 Control Data Corporation Records] Charles Babbage Institute, University of Minnesota
* [http://www.cbi.umn.edu/collections/inv/cdc/cbi00080.html Control Data Corporation Records (CBI 80)] — [[ミネソタ大学ツインシティー校]] [[チャールズ・バベッジ研究所]]。Ceridian Corporation が1991年に寄贈したCDCに関するアーカイブ(年表などもある)
* [http://purl.umn.edu/107551 Oral history interview with William Norris] Charles Babbage Institute, University of Minnesota.
* [http://www.nasm.si.edu/research/dsh/artifacts/GC-CDC3800.htm Information about the Control Data CDC 3800 Computer] — [[国立航空宇宙博物館]]別館
* [http://purl.umn.edu/107248 Oral history interview with Willis K. Drake] Charles Babbage Institute, University of Minnesota.
* [http://purl.umn.edu/107224 Oral history interview with Richard D. Conner] Charles Babbage Institute, University of Minnesota.
* [http://purl.umn.edu/107603 Oral history interview with Robert Price] Charles Babbage Institute, University of Minnesota.
* [http://purl.umn.edu/107099 Oral history interview with Eugene L. Baker] Charles Babbage Institute, University of Minnesota.
* [http://purl.umn.edu/107116 Oral history interview with Norbert R. Berg] Charles Babbage Institute, University of Minnesota.
* [http://purl.umn.edu/107627 Oral history interview with Mike Schumacher] Charles Babbage Institute, University of Minnesota.
* [http://purl.umn.edu/107232 Oral history interview with Charles F. Crichton] Charles Babbage Institute, University of Minnesota.
* [http://www.referenceforbusiness.com/biography/S-Z/Weill-Sandy-1933.html Information about the spin out of Commercial Credit from Control Data by Sandy Weill]
* [http://philipps-welt.info/CDC_History/0_CDC_history.htm Private Collection of historical documents about CDC]
* [http://www.computinghistory.org.uk/cgi-bin/sitewise.pl?act=sect&pt=1609_398&s=2314 Control Data User Manuals Library @ Computing History]
* [http://www.museumwaalsdorp.nl Computing history describing the use of a range of CDC systems and equipment 1970-1985]
* [http://www.cray-cyber.org A German collection of CDC, Cray and other large computer systems, some of them in operation]


[[Category:かつて存在したアメリカ合衆国のコンピュータ企業|こんとろるてたこほれしよん]]
[[Category:かつて存在したアメリカ合衆国のコンピュータ企業|こんとろるてたこほれしよん]]

2012年3月9日 (金) 12:38時点における版

コントロール・データ・コーポレーション (CDC) は、スーパーコンピュータの先駆者として有名なコンピュータ企業であった。1960年代を通じてシーモア・クレイが所属しており、最速のコンピュータを作り続けた。しかし1970年代にはクレイが同社を離れてクレイ・リサーチ (CRI) を創業し、世界最速のタイトルを奪った。CDCは1960年代のメジャーなコンピュータメーカー9社のひとつであった(他はIBMバロースDECNCRGEハネウェルRCAUNIVAC)。

背景と起源:第二次世界大戦から1957年まで

第二次世界大戦の間、アメリカ海軍は技術者を集めて日本軍とドイツ軍双方の機械式暗号作成器で作成された暗号を解読するマシンの開発に当たらせた。その手のマシンはワシントンD.C.に集められたチームが作り出した。戦後の軍事費削減の中で海軍はこのチームを解散させた場合の機密漏洩を危惧し、解散させずに済む方法を探し始めた。

そして、ついに解決法が見つかった。ミネソタ州セントポールの Chase Aircraft という会社に技術者たちを引き取ってもらうことで決着した。同社は終戦と共に軍との契約をほとんど失い困っていた。そこでチームが何をしていたかを説明せず、単に彼らを雇ってくれたら軍としては大変助かるとだけ述べた。当初は怪しんでいたが、打ち合わせのたびに海軍のより高い地位の士官が来るようになり、真剣であることがわかった。結局同社は軍用グライダー工場をそのチームの拠点とすることに同意した。

これにより Engineering Research Associates (ERA) が設立され、1950年代初頭まで一見して関連のない様々なプロジェクトに従事した。そのうちのひとつは世界初の商用プログラム内蔵方式コンピュータ、36ビットの ERA 1103 である。このマシンは海軍のために開発され、暗号解読センターで使うことを目的としていた。1950年代初頭に国会で海軍が実質的にERAを「所有」していることが問題とされた。その結果としてERAは海軍との関係を断たれ(資金の引き上げなど)、1952年にERAのオーナーは会社をレミントンランド社に売却した。

レミントンランド社はERAのチームを維持し新製品の開発を続けていた。同社が最も興味を抱いたのはERAの磁気ドラムメモリシステムである。レミントンランドは間もなくスペリーと合併しスペリーランドとなり、ERA部門はスペリーのUNIVAC部門に吸収された。当初ERAから来た人々は技術的才能を買われ、様々なプロジェクトに参加した。しかし、UNIVACからERAに任された UNIVAC II英語版 プロジェクトは遅れに遅れ、関わったほぼ全員が調子を狂わせた。

大企業の社風が合わなと感じたERAの技術者たちは辞職し、1957年にコントロール・データをミネアポリスに設立する。CDC設立メンバは満場一致でウィリアム・ノリス最高経営責任者に選出した。また、シーモア・クレイはチーフデザイナーに選ばれたが、1103ベースの 海軍戦術情報システム (NTDS) に関する仕事が続いていたため、それが完了するまでCDCに合流できなかった。

初期の設計:クレイの大計画

CDCは主に磁気ドラムメモリシステムなどのサブシステムを売ることから事業を開始した。クレイが翌年合流すると即座にトランジスタベースの6ビット小型マシン "Little Charactor" を開発した。これは、クレイが考えている大型のトランジスタベースマシンのアイデアに向けたテストでもあった。

Little Charactorは成功を収め、1959年、彼らは1103を48ビット化したトランジスタ版である CDC 1604英語版 をリリースした。CDC 1604の最初の完成品は1960年にアメリカ海軍に納入された。なお "1604" という番号は、以前にクレイが開発した "1103" にCDCの最初の所在地の番地 (501 Park Avenue) を足したものだという説がある[1]

CDC 3000 シリーズの制御卓

12ビットにスケールダウンした CDC 160A英語版 も1960年にリリースされる。これが世界初のミニコンピュータとされることが多い。160A は標準的なオフィス用机の形状であり、当時としては珍しいデザインだった。また、1604アーキテクチャの新バージョン CDC 3000英語版 シリーズは1960年代中盤まで販売されることになる。

クレイは世界最高性能のマシンの設計にとりかかった。その目標は1604の50倍の性能である。そのためには大胆な設計変更が要求され、プロジェクトには時間がかかった(実に四年間かかっている)。経営陣はプロジェクトの動向を気にしはじめ、監視の目が厳しくなってきたため、クレイは1962年に自らの研究所設立を申し出て、認められなければ辞職すると言い出した。ノリスはこれを承諾し、クレイはチームを引き連れて行った。ノリスを含めたCDCの経営陣は、招待されない限りクレイの研究所を訪問できないという約束がかわされている[2]

周辺機器事業

1960年代を通して、ノリスは IBM に対抗するには何か重大なものを開発する必要があると感じるようになっていった。そのため、彼は周辺機器企業を買収してラインナップをそろえるという大胆な作戦を開始した。彼らはIBMより10%価格を安く設定し、10%性能の良いものを提供することを試みた。これは常に簡単というわけではなかった。

最初の周辺機器の1つに磁気テープ装置がある。周辺機器部門はこの開発にあたって社内の他部門にコストを分担させようとしたため、ちょっとした議論が発生した。もし原価相当の価格で他部門に機器を供給すれば、周辺機器部門は利益を得る方法がないことになる。代わりに周辺機器部門は、周辺機器が売れた際の利益の一部を還元してもらうことで決着し、以後その方式が定着した。

その後、カードリーダ、カードパンチ、ストリーマ、ドラム式プリンターなど、全て自社設計のものが開発されていった。当初、プリンター事業はデトロイト近郊のホーリー・キャブレータが実際の生産を行っていたが、後に合弁会社を設立。さらにホーリーは保有株をCDCに売却し、プリンター部門としてCDCに編入された。

ノリスは IBM が支配するパンチカードに代わる入力手段を模索していた。彼は光学文字認識 (OCR) システムのパイオニアである Rainbow Engineering 社を買収することにした。そのアイデアは、オペレータが決まったフォントのタイプライターで普通に打ち込んだものを OCR で読み込むことでパンチカードを不要にするというものであった。タイプされたページ1枚にはパンチカード1枚より遥かに大量の情報が含まれる(パンチカードは基本的にタイプの1行ぶんの情報しかない)。従って、紙の節約にもなる。しかし、これは思ったよりも困難な転換だった。CDC は初期の OCR システムで重要な役割を演じたが、今日に至るまで OCR が主要なデータ入力手段になったことはない。Rainbow の工場は 1976 年に操業停止し、CDC もその事業を止めた。

OCR プロジェクトが思ったように進展せず、パンチカードがすぐには無くならないことが明らかになると、CDC はこれにすぐさま対応する必要に迫られた。パンチカード機器は製造し続けていたが、それらは原価が高かった。そこで、より安価で高速な機器を持っている Bridge Engineering 社を買収することになった。その工場では磁気テープ装置も製造するようになった。後に、その工場とプリンターの工場はスピンオフされ、NCRとの合弁会社 Computer Peripherals Inc (CPI) となった。これは開発を共通化することでコストを削減する意味があった。さらに後には ICL もこれに加わっている。さらに1982年、そこからプリンター工場がセントロニクスに売却された。

ノリスは、コンピュータを購入できない中小企業向けに計算サービスを提供するオフィスをあちこちに展開した。この事業はあまり利益を生まなかった。1965年ごろ、何人かの管理職が利益の出ていないオフィスを閉鎖することをノリスに提案した。しかし、ノリスはこのアイデアを気に入っていたため、その提案を受け入れず、代わりに全体的な倹約を指示した。

CDC 6600:スーパーコンピュータの誕生

CDC 6600

一方、シーモア・クレイと34人の技術者は新しい研究所で設計を続行した。1964年、その成果は CDC 6600 としてリリースされ、市場に存在するあらゆるマシンと比較して10倍以上の性能を誇った。6600のCPUは複数の非同期な機能ユニットで構成され、10個のI/Oプロセッサが接続されていて多くの一般的なタスク負荷を受け持っていた。そのためCPUは穿孔カードやディスク入出力といったありふれた仕事をコントローラに任せて、データ処理に専念することができる。最新のコンパイラでは0.5MFLOPSの性能、アセンブラでコードを書くと約1MFLOPSの性能を記録した。これは時代を考えると驚異的な数字である。性能を落としたバージョン CDC 6400 と 2プロセッサバージョン 6500 もリリースされた。

6600向けに MNF (Minnesota Fortran) というFORTRANコンパイラが、ミネソタ大学で開発されている[3]

6600が出荷されると、IBMはこの新しい会社に注目した。トーマス・J・ワトソン・ジュニアは「この門番を入れても34人しかいない小さな会社が数千人を抱える我が社を打ち負かしたのはどうしたわけだ?」と言ったと伝えられている。これを耳にしたクレイは「その質問の中に答えがあるじゃないか」と言ったという。1965年、IBMは 6600 よりも高速なマシン ACS-1英語版 の開発プロジェクトを開始した。200人がこのプロジェクトのために集められた。このプロジェクトは面白いアーキテクチャと技術を生み出したが、それはIBMのSystem/360とは互換性がなかった。System/360互換となるよう方向転換が図られたが、そのために性能が低くなり、プロジェクトは何も製品を生み出せないまま1969年に中止された。そのためこれに関わった多くの技術者がIBMを退職し、IBMの高性能コンピュータ部門から頭脳が失われた。

一方でIBMは先走って6600と同等性能のSystem/360シリーズの新バージョン Model 92 を発表した。このマシンは実在しなかったが、人々がそのリリースを待って6600の売り上げがストップするまで取り消さなかった(今日ではFUDと名づけられているマーケティング手法である)。ノリスはこの嘘を放っておかず、1年後にIBMを反トラスト法違反で訴えた。結局、CDCは8000万ドル相当のIBMの資産を手に入れた[4]。その中でノリスは Service Bureau Corporation (SBC) に注目した。同社はコンピュータを所有して他の企業に計算能力を提供していた。これはノリスが進めていた計算サービス事業にうまくはまった[5]

6600設計の過程で、CDCは同システムに高速磁気ディスク装置システムを提供するSPINプロジェクトを実施した。当時磁気ディスクが磁気ドラムメモリに取って代わるかどうかは不明であり、ディスクも固定型とリムーバブル型のどちらがよいのか不明だった。そのためSPINプロジェクトではあらゆる選択肢を試し、最終的に28インチ固定ディスク型と14インチのパック型を生み出した。その後、SPINプロジェクトに端を発したハードディスク事業がCDCの主力となっていく。

CDC 7600 と 8600

IBMに勝利したのと同じ月に、CDCは新たなマシン CDC 7600 を発表した。クロック周波数を6600の約4倍とし(10MHz⇒36MHz)、システム全体としても4倍以上のスループットを実現している。

性能向上の決め手は命令パイプラインの採用であり、CPU内の各部がそれぞれ次々に命令を処理していくことで同時に複数命令を処理可能としている。そのため、1命令の処理時間が同じであっても、全体としてスループットが向上し、プログラムの実行時間が短縮される。

7600が登場した1969年はアメリカ国内の景気後退期だったため、市場での反応は芳しくなかった。またあまりに複雑な設計だったため、信頼性に問題を生じた。6000シリーズとも完全な互換性がなく、OSはほとんど新たに作られ、しかも基本的な機能しか備えていなかった。7600プロジェクトは採算は何とかとれたが、CDCの評判を落とす結果となった。

クレイはCDC 8600にとりかかった。8600 は基本的には 7600 を 4台、より小さな筐体に入れたものである。サイズを縮小して信号経路を短くすることにより 8600 はさらに高いクロック周波数で動作でき、高速なメモリと組み合わせることで性能を向上させるはずだった。しかし、8600は従来からの製造方法をとった。つまり部品を基板に半田付けしていた。半田付け箇所があまりに多かったため、一箇所が接触不良になっていてもマシンは動かず、結果として一度もちゃんと動作しなかった。クレイは設計のやり直しが必要だと決断した。

STAR と Cyber

8600の再設計に加えて、CDCはSTARと呼ばれるプロジェクトを抱えていた。STARは6600/6700でクレイと共に働いたジム・ソーントンが主導していた。STARのデザインは現在ではベクタープロセッサと呼ばれている手法を使ったもので、数値演算のみを非常に長いパイプラインで処理するというものである。これにより数値演算は極めて高速化されるが、それ以外は7600よりずっと遅かった。実際CDCの顧客が求めているのは数値演算の高速性であったため、それは大きな問題とはみなされなかった。STARのベクタは64ビット幅で65,536の長さを持っていた。

1960年代終盤、CDCはこのふたつのプロジェクトを同時進行させるほどの資金力はなかった。ノリスはクレイと話し合い、クレイは1972年にクレイ・リサーチを設立する。ノリスはその後もクレイを援助し続けた。8600は1974年に中止され、STARは同年 Cyber 203 としてリリースされた。ところがSTARは実際のユーザプログラムではまったく性能を出せなかった。ジム・ソーントンはCDCを辞め、Network Systems Corporation を創業することになる。

CDCは6600/7600アーキテクチャを基本としてパッケージし直して CDC Cyber英語版 シリーズとして販売していく。これがCDCの1970年代の主製品であった。CyberシリーズにはSTARの焼き直し版 Cyber 205 も投入され、こちらはオリジナルとは違ってそれなりに高性能であった。しかし、そのころクレイはCray-1のようなSTARの手法も取り入れたマシンを出しており、極めて計算性能が高かった。

CDCのリリースした Cyber 200/205 は特定分野ではクレイ社と互角に戦える性能だった。CDCは顧客の様々なプロジェクトに参加しており、軍のプロジェクト black project にも参加している。その成果の1つとして、CDC Advanced Flexible Processor (AFP) またの名を Cyberplus がある。

もう1つの設計の方向性として "Cyber 80" プロジェクトがある。これは6600のプログラムを実行できるがアーキテクチャは全く新たな64ビットである。1980年のリリースを目指していた。これは6000シリーズのユーザーの買い替えを期待したものだった。プロジェクトは遅延し、最終的には別の名でリリースされた。

PLATO端末 (1981)

また、ハードウェア依存からサービス中心の事業形態への転換を図った。例えば、コンピュータを使用した学習システム PLATO の開発がある。Cyberシステム上で動作し、ビットマップ方式のタッチスクリーンを備えた端末など最新のユーザインタフェースを採用していた。

ETAシステムズ、ハードディスク、そして忘却のかなたへ

CDCは再び性能に挑戦しようとしていた。しかしノリスはCDCがすばやくよい設計を作り出すには組織として硬直化しすぎていると考えていた。そこで彼は新たなスピンオフ会社ETAシステムズを1983年に設立した。ETAの設計目標は10GFLOPS、Cray-1の40倍の性能である。ETAは目標を達成することはできなかったが、一時的に世界最高性能の栄冠を手にし、翌年には若干の売り上げもあった。CDCはETAを売ることで損失を補填することも検討したが、1989年ほとんどの従業員を解雇し、残った従業員はCDCで再雇用した。

一方、日本のNEC富士通といった大企業がその市場に参入し始めていた。スーパーコンピュータ市場はそれほど大きくはない。CDCは他の市場を捜し求めた。見つけたのは高性能ハードディスク市場である。1980年代中ごろ、パーソナルコンピュータにハードディスクが搭載されはじめており、有望な市場であった。1970年代から1980年代初めにかけて、CDCは14インチディスクドライブの市場ではOEMなどでトップの座を占めていた。シュガートアソシエイツが切り拓いた8インチディスクドライブ市場にもいち早く進出。特に高性能ハードディスクで大きな地位を占めるようになった。しかし、新企業の参入により大容量化・高性能化が急速に進み、CDCはそれに遅れをとるようになっていく。コンパックウェスタン・デジタルと共にATA規格を開発したのもCDCである。

奇妙なことに1988年にCDCはハードディスク部門をスピンオフさせ、Imprimis という会社にした。翌年、ハイエンド市場への足がかりを求めていたシーゲイト・テクノロジーがImprimisを買収。CDCのコンピュータ部門はコントロール・データ・システムズと改称、BTグループの傘下に入り、BTのグローバルサービス部門に吸収された。

CDCの中でもエネルギー管理部門は最も成功していおり、世界の発電所の25%で管理ソリューションを提供していた。1988年か1989年、これを Empros として独立させ、後にシーメンスに売却した。

CDCのサービス事業は1992年にスピンオフされ、Ceridian英語版 となった。同社は人事関係などのITアウトソース企業として成功している。Ceridian は1997年、CDC時代に政府関係のシステムを開発していた部門をジェネラル・ダイナミクスに売却した。

シティグループとの関係

シティグループは1998年、シティコープとトラベラーズ・グループが合併して誕生した。トラベラーズ・グループはサンディ・ワイル英語版が1986年にCDCの子会社 Commercial Credit を買収し、それを中核として築いたものである。Comercial Credit は元々独立した企業だったが、1968年に敵対的買収をされそうになり、CDCが資金を提供して買収に対抗したという経緯があった[6]

映画やテレビドラマでの登場

  • 地球爆破作戦』(1970): 冒頭に磁気テープ装置など初期のCDCの装置が出てくる。
  • 600万ドルの男』のパイロット版 (1973): OSIの研究所のコンピュータに "Control Data" というロゴがある。
  • おかしなおかしな大泥棒』(1973): ライアン・オニールがCDCをクビになった主人公を演じている。
  • トロン』(1982): フリンとローラがエンコム社に侵入するシーンに登場する計算機室で CDC 7600 が背景に映っている。これはローレンス・リバモア国立研究所で撮影された。
  • ダイ・ハード』(1988): 計算機室に CDC Cyber 180 数台の実物と ETA-10 のモックアップが映っており、これらは全て CDC Demonstration Services/Benchmark Lab から提供されたものであった。撮影直前に別のメーカーにキャンセルされ、短期間で貸し出しが決まった。なお、マシンは返却後テストされ通常通り売られた。
  • ゼイリブ』(1988): 主人公がサングラスを初めてかけたとき、CDC の広告を見ると、そこには "OBEY"(服従せよ)という文字が見えた。

脚注・出典

  1. ^ 当時のCDC従業員のインタビューである Reminiscences of computer architecture and computer design at Control Data Corporation の p.20 に記述があるが、それは単なる伝説だとして、p.21 に正式な由来の説明がある。
  2. ^ 招待されていないセールスマンがクレイの研究所を訪問した際の話が こちらにある。
  3. ^ Frisch, Michael (Dec 1972). “Remarks on Algorithms”. Communications of the ACM 15 (12): 1074. 
  4. ^ Oral history interview with Richard G. Lareau, Charles Babbage Institute, University of Minnesota.
  5. ^ "COMPUTERS: A Settlement for IBM", Time magazine, Monday, Jan. 29, 1973.

    「訴訟を取り下げる見返りとして、CDCは多くのものを勝ち取った。約1600万ドルでIBMの Service Bureau Corp. を獲得。同社は所有するコンピュータのCPU時間を顧客に売ってデータ処理を行うサービスを提供している。ウォール街のアナリストは、同社の市場価値を約6000万ドルと見積もっている。さらにIBMは同社から5年間サービスを購入し、6年間は同様のサービスを立ち上げないことで、CDCが費やした弁護士費用1500万ドルを相殺するという。したがってIBMが支払う総額は少なくとも8000万ドルとなる。CDCのワンマン会長ウィリアム・ノリスは、大胆な訴訟が「我が社の歴史上最善の経営判断の1つになった」と語った」

  6. ^ Price, Robert (2005-11-11). The Eye for Innovation: Recognizing Possibilities and Managing the Creative Enterprise. 11 (1 ed.). New Haven, Ct: Yale University Press. pp. 168. ISBN 978-0300108774. http://yalepress.yale.edu/yupbooks/book.asp?isbn=0300123701 

参考文献

  • Lundstrom, David. A Few Good Men from Univac. Cambridge, Massachusetts: MIT Press, 1987. ISBN 0262121204.
  • Murray, Charles, and John Wiley. The Supermen: The Story of Seymour Cray and the Technical Wizards behind the Supercomputer. New York: John Wiley, 1997. ISBN 0471048852.
  • Price, Robert M. The Eye for Innovation: Recognizing Possibilities and Managing the Creative Enterprise. New Haven, Connecticut: Yale University Press, 2005. ISBN 030010877X.
  • Worthy, James C. William C. Norris: Portrait of a Maverick. Ballinger Pub Co., May 1987. ISBN 978-0887300875

関連項目

外部リンク