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「則天文字」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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則天文字(2007年12月4日 (二) 13:09)の記事を翻訳追記。一部省略・修正している。
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{{漢字|[[画像:升仙太子碑拓片局部.jpg|170px]]}}
{{漢字|[[画像:升仙太子碑拓片局部.jpg|170px]]}}
'''則天文字''' (そくてんもじ)とは[[中国]][[武周]]朝を創始した[[女帝]]、[[武則天]]が制定した文字である。
'''則天文字''' (そくてんもじ)とは[[中国]][[武周]]朝を創始した[[女帝]]、[[武則天]]が制定した漢字。'''則天新字'''、'''武后新字'''とも言われる。[[六書]]の文字分類では[[象形]]文字あるいは[[会意]]文字である。


武則天が権力を誇示するため、あるいは個人的な好みや考えのため制定されたとされる。武則天が失脚するとほどなく忘れ去られた。日本で最も有名なのは「圀」の字で、[[徳川光圀]]の名前に使用されている。この字は「國」の「或」の部分が「惑」に通じるので不吉だと理由で「八方」という字が入れられた。
== 概説 ==
''詳細は中国語版を参照''


また、『「地」は「土」の上に「山水」がある』という理由から、代わりに「土」の上に「山水」を乗せる字「{{lang|zh|埊}}」が考案、使用された。
[[武則天]]が権力を誇示するため、あるいは個人的な好みや考えのため制定されたとされる。武則天が失脚するとほどなく忘れ去られた。


「臣」は「忠」を第一にせねばならないという考えから「忠」の上に「一」を乗せた字「[[画像:TRON 2-AF34.gif|16px]]」が「臣」の代わりに使用させられた。
*最も有名なのは「圀」の字であろう。日本では[[徳川光圀]]の名前に使用されている。この字は「國」の「或」の部分が「惑」に通じるので不吉だと理由で「八方」という字が入れられた。


武則天自身の名前「照」は「{{lang|zh|曌}}」となった。「空」の上に「日」「月」であり、この字は武則天のためだけの文字である。
*「地」は「土」の上に「山水」があるという理由から「土」の上に「山水」を乗せる字「{{lang|zh|埊}}([[画像:TRON 2-6555.gif|16px]])」が「地」の代わりに考案。使用された。

*「臣」は「忠」を第一にせねばならないという考えから「忠」の上に「一」を乗せた字「[[画像:TRON 2-AF34.gif|16px]]」が「臣」の代わりに使用させられた。
==概要==
*武則天自身の名前「照」は「{{lang|zh|曌}}」となった。「空」の上に「明」である。
武則天は中国史上ただ一人の女帝であり、今までの慣わしを何でも改めるのが好きな人物であった。彼女が変更しなかったのは服装ぐらいのもので、まず[[国号]]を[[唐]]から[[周]]に変えた。[[改元]]は頻繁であり、官職名も変えた。中でも有名なのは、新たに字を作ったことである。彼女は自らの思想と政治力によって、あたかも服を着替えるかのように簡単に文字を変更した。この文字は後世「則天文字」と呼ばれるようになった。

例えば「天」の文字は[[Image:则天文字之天手写.svg|20px|则天文字之“天”手写]]に改められた。これは「天」の字の[[篆書体]]である。もっとも、このように形を変えただけの文字は例外であり、ほとんどの文字は新たに作られたものである。

則天文字が何文字あるかはよく分かっておらず、12、16、17、18、19、21個の各説があり、すべての説の文字をあわせると30字前後になる。もっとも、印刷や手書きの都合で異体字となっているものもあり、現在のところは17個説が有力である。

則天文字が使われたのはわずか15年間であったが、従来の文字にも影響を与えた。文化財などに書かれた文字を見ていくと、武則天の前後の影響がよくわかる<ref>潘吉星, 論韓国発現的印本『無垢浄光大陀羅尼経』, 科学通報. 1997, '''42''' (10): 1009-1028. </ref>。武則天が退位した[[705年]][[3月3日]]<ref>従両《唐書·則天后本紀》和《資治通鑑》,《唐会要·帝号上·中宗》作「二月初五」(3月4日),誤。</ref>、復位した[[中宗 (唐)|中宗]]は国号を唐に戻した。則天文字は公式には廃止され、私文書においてもだんだんと廃れていった。現在中国では全く使われていない。もっとも当時の武則天の威光は絶大だったようで、海外にまで伝わっている。また、昔からよく文字研究の対象になっている。

==則天文字の歴史==
[[Image:WuZetian.jpg|150px|thumb|大周の女帝武曌]]
※本項の月日は、漢数字のものは[[中国暦]]、算用数字のものは西暦である。<!--私が写し間違ってなかったらだけど-->

===文字の創作と施行初期===
「[[新唐書]]」あるいは『[[資治通鑑]]』などの史書によると、則天文字は武則天が考えたものではなく、甥の[[宗秦客]]に命じて作らせたもののようである。

当初公表されたのは12文字であり、「照」、「天」、「地」、「日」、「月」、「星」、「君」、「臣」、「載」、「初」、「年」、「正」がそれぞれ『[[Image:则天文字之照一.SVG|16px]]』、『[[Image:则天文字之天二.SVG|16px]]』、『[[Image:则天文字之地.SVG|16px]]』、『[[Image:则天文字之日.SVG|16px]]』、『[[Image:则天文字之月一.SVG|16px]]』、『[[Image:则天文字之星.SVG|16px]]』、『[[Image:则天文字之君正字.SVG|16px]]』、『[[Image:则天文字之臣.SVG|16px]]』、『[[Image:则天文字之载正字.SVG|16px]]』、『[[Image:则天文字之初.SVG|16px]]』、『[[Image:则天文字之年正字.SVG|16px]]』、『[[Image:则天文字之正.SVG|16px]]』に改められた。このうち[[Image:则天文字之载正字.SVG|16px]]』と『[[Image:则天文字之初.SVG|16px]]』の2文字が組み合わされて年号「載初」として使われた。制定当時の武則天の言葉が『改元載初敕』の中に収録されている。

<!--{{cquote|……朕宜以曌为名……特创制一十二字,率先百辟,上有依于古体,下有改于新文,庶保可久之基,方表还淳之意。……}} ここの箇所はよくわからないので保留。「朕は名を曌とあらためる。…他の事項に優先して、まずは新たな文字12字を定める。古い慣習を改めて、新たな字で公布し直すためである。下々にいたるまでこれを守り、周辺諸国もこの命に服すべし」ぐらいの意味か?-->
この時から武則天は名を武曌と改め、「曌」の字は[[避諱]]にあたるとして他人が使用するのを禁じた。同じ発音の「照」の使用も禁止された。当時退位させられていた中宗の長男(すなわち武則天の孫)李重照は、名を[[李重潤]]と改めさせられた。[[689年]][[12月25日]]、則天文字は正式に公布された。

『旧唐書·藝文志』にも記録があり、「武則天は字大海(字書)100巻を作成し、その中に少なからず創作文字を入れた。それを武后新字あるいは則天文字という」と記されている。

===文字の伝播と新たな文字の制定===
載初元年(690年)七月、聖母神皇(即位前に武則天が自身をこう呼ばせた)の武則天は、仏典『大雲経』の中に「彌勒降生」、「女子為王」といったことが書かれていたことを利用して、[[洛陽]][[白馬寺]][[住持]]の[[薛懐義]]に命じて注釈書『大雲経疏』を書かせ、その中で「武則天が皇位に就く事は仏典に定められていることだ」と宣伝させた。この本は全国各地に頒布され、この本と共に、則天文字も全国に広まった。なお、薛懐義は武則天の愛人であるとされている。

[[690年]][[10月16日]]、この日は(中国暦で)[[重陽]]の節句であり、武則天は正式に皇位に付き、年号を[[載初]]から[[天授 (周)|天授]]に改めた。天授年間、授の字が[[Image:则天文字之授二.SVG|16px]]に変えられた。(天の字はすでに[[Image:则天文字之天二.SVG|16px]]に変えられている。)[[証聖|證聖]]に改元されると、證の字は[[Image:则天文字之证正字.SVG|16px]]に、聖の字は[[Image:则天文字之圣.SVG|16px]]に改められた。証聖元年([[695年]])六月下旬、國(国)の字が[[Image:则天文字之国.SVG|16px]]に改められた。[[聖暦]]年間([[698年]])、人の字に代わって[[Image:则天文字之人.SVG|16px]]が登場した。

則天文字は、以上の17字と考えられている。時に21字と言われることもあるが、これは昔の学者が唱えた説が未だに信じられているためである。

===使用の廃止===
則天文字は、武則天が皇位に就いていた<ref>ただし、現代中国では「僭称」(即位を認めない)とされることが多い。</ref>15年間(690年—705年)には広く使用されており、石碑や仏典などに盛んに記された。現存する武周時期(武則天の治世)の[[碑銘]]、[[墓誌銘]]によく現されている。

武則天は[[705年]]に中宗に皇位を譲ると、まもなく他界した。中宗は全ての制度を昔の[[高宗 (唐)|高宗]][[永淳]]]時代に戻すように命じ、合わせて則天文字も廃止された。これに対して武則天の親戚の[[武三思]]らは、皇后の[[韋后]]や女官の[[上官婉児]]と結託して、[[張柬之]]ら重臣5名を追放し、権勢を揮った。これを機会に、[[時任左補闕]]の[[権若訥]]は中宗に奏上し「則天文字を復活させることが他界した母親への孝行である」と提案した<ref>[[権若訥]]の上奏は清の[[洪邁]]が著書『[[容斎随筆]]』・『容斎続筆』の中で述べている。</ref>。中宗は概ね権若訥の指示に従っていたが、則天文字の復活だけは認めなかった。[[文宗 (唐)|文宗]]の治世となっていた[[開成 (唐)|開成]]二年(837年)十月、則天文字を元の文字に直すことを命じる詔書が改めて頒布された<ref>[[北宋]][[王欽若]]の編書『[[冊府元亀]]』。</ref>。これは逆にいえば、この時まで則天文字が使われていたことを意味し、150年間通用していたことになる。

==解説==
{| class=wikitable
! 原字 || 新字 || 新字拡大 || [[Unicode]] || 字義
|-
| 照 || {{Unihan|66CC}} || [[Image:则天文字之照一.SVG|100px|则天文字之“照”一]]|| 66CC ||「'''照'''」。武則天の名を表す。則天文字で最も有名なものの1つ。「日」と「月」と「空」を合わせたもので(異説もある)、武則天があまねく世界を照らしていることを意味する。日は陽の象徴、月は陰の象徴であり、武則天が陰陽調和し、男帝を含めた全ての皇帝の中で最も優れていることを示唆している。武則天はこの字を名にすることで、自らの正当性を主張した。
|-
| 照 || {{Unihan|77BE}} || [[Image:则天文字之照二.SVG|100px|则天文字之“照”二]]|| 77BE ||「'''照'''」。「曌」の異体字と考えられている<ref>《字彙》:「同『照』。」按《正字通》:「唐武后自製十九字,以『瞾』為名,与『照』音義同,従明,非従二目也。後訛為『曌』。」《字彙》改作「瞾」,《字彙補》又作「曌」,並非。</ref>。あるいは字書の作者が「曌」の字を[[避諱]]してあえて間違った字を書いたとも言われている。
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| 天 || {{Unihan|2047A}} || [[Image:则天文字之天一.SVG|100px|则天文字之“天”一]]|| 2047A ||「'''天'''」。詳細は次項[[Image:则天文字之天二.SVG|16px|则天文字之“天”二]]で。
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| 天 || {{Unihan|20011}} || [[Image:则天文字之天二.SVG|100px|则天文字之“天”二]]|| 20011 ||「'''天'''」。天の字の[[篆書体]]をさらに活字体にしたものとみられる<ref> 《漢語大字典》:「同『天』,唐武則天所造字。」 </ref>。 [[Image:则天文字之天一.SVG|16px|则天文字之“天”一]]も[[Image:则天文字之天二.SVG|16px|则天文字之“天”二]]も手書きにすると同じ「[[Image:则天文字之天手写.svg|16px|则天文字之“天”手写]]」であり、活字彫刻者の違いと見られる。
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| 地 || {{Unihan|57CA}} || [[Image:则天文字之地.SVG|100px|则天文字之“地”]]|| 57CA ||「'''地'''」。「山、水、土」の3字を合わせたもので、「山」の「水」が「土」に到達する所、すなわち大地を意味する。ただし、この字は則天文字以前にも例がある<ref> 《玉篇》:「古『地』字。《前漢·趙充国伝》:『令不得帰肥繞之<span lang=zh-cn>埊</span>。』」按《類篇》謂唐武后作<span lang=zh-cn>埊</span>,非。又趙与時《賓退録·五》:「武后改易新字,如以山水土為地,千千万万為年,永主久王為証,長正主為聖。」 </ref>。
|-
| 日 || {{Unihan|211A0}} || [[Image:则天文字之日.SVG|100px|则天文字之“日”]]|| 211A0 ||「'''日'''」。この字は、中国神話中の太陽神鳥[[金烏]]を意味している<ref>《集韻》:「入質切,同『日』。《説文》:『実也,太陽之精不虧,従囗,一象形。』唐武后作[[Image:则天文字之日.SVG|16px|则天文字之“日”]]。」 </ref>。「口」は手書きでは「○」になるので、実際には「[[Image:则天文字之日正字.SVG|16px|则天文字之“日”正字]]」として使われており、この字も活字作者によって○が口に直されたものとみられる。
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| 月 || {{Unihan|56DD}} || [[Image:则天文字之月一.SVG|100px|则天文字之“月”一]]|| 56DD ||「'''月'''」。口は満月の輪郭を表し、「子」は中国神話に言う月のウサギか金の蛙を意味していると見られる<ref>《集韻》:「魚厥切,音『刖』,与『月』同,武后所作。」 </ref>。「口」は満月を表しているので、次の「[[Image:则天文字之月二.SVG|16px|则天文字之“月”二]]」よりも好字の印象がある。現代中国では「仔」の異体字とされる。
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| 月 || {{Unihan|20971}} || [[Image:则天文字之月二.SVG|100px|则天文字之“月”二]]|| 20971 ||「'''月'''」。「匚」は三ヶ月を表しており、「出」の字は中国神話に出てくる金のヒキガエルを意味している<ref> 《字彙補》:「与『月』同,武則天制。」見《大周泰山碑》。 </ref>。一説によると、「[[Image:则天文字之生.SVG|16px|则天文字之“生”]]」(則天文字の「生」)の異体字である。
|-
| 星 || {{Unihan|3007}} || [[Image:则天文字之星.SVG|100px|则天文字之“星”]]|| 3007 ||「'''星'''」。星の球形を表している。典型的な象形文字。現代中国では「0」と同義であり、「西暦二'''〇〇〇'''年」のように用いられる。
|-
| 君 || {{Unihan|20E9E}} || [[Image:则天文字之君正字.SVG|100px|则天文字之“君”正字]]|| 20E9E ||「'''君'''」。「天大吉」の合字。その後、「[[Image:则天文字之君一.SVG|16px|则天文字之“君”一]]」に変化した<ref>王三慶, 論武后新字的創製与興廃兼論文字的正俗問題, 成大中文学報. 2005-12, (13). </ref>。
|-
| 君 || {{Unihan|20048}} || [[Image:则天文字之君一.SVG|100px|则天文字之“君”一]]|| 20048 ||「'''君'''」。上の字の異体字。印刷の都合でこう変わったらしい<ref>《新唐書·后妃伝上·則天武皇后伝》:「載初中,又享万象神宮,以太穆、文德二皇后配皇地祇,引周忠孝太后従配。作……、[[Image:则天文字之君一.SVG|16px|则天文字之“君”一]]、……,十又二文。」 </ref>。
|-
| 君 || {{Unihan|20C70}} || [[Image:则天文字之君二.SVG|100px|则天文字之“君”二]]|| 20C70 ||「'''君'''」。これも印刷で生じた異体字<ref>《字彙補》:「唐武后所制『君』字。」 </ref>。
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| 臣 || {{Unihan|22611}} || [[Image:则天文字之臣.SVG|100px|则天文字之“臣”]]|| 22611 ||「'''臣'''」。「一忠」の合字で、「臣下は忠実一途であれ」を意味している<ref>《字彙補》:「古文『臣』字。」 </ref>。
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| 除 || {{Unihan|2003A}} || [[Image:则天文字之除.SVG|100px|则天文字之“除”]]|| 2003A ||「'''除'''」。「天興」を意味する。武則天の世は苛政が無く、弊政であり、新世界の到来であることを意味している<ref>《新唐書·后妃伝上·則天武皇后伝》:「載初中,又享万象神宮,以太穆、文德二皇后配皇地祇,引周忠孝太后従配。作……、[[Image:则天文字之除.SVG|16px|则天文字之“除”]]、……,十又二文。」 </ref>。
|-
| 載 || {{Unihan|21540}} || [[Image:则天文字之载正字.SVG|100px|则天文字之“载”正字]]|| 21540 ||「'''載'''」。この字は「載」を変化させたものである。次の「[[Image:则天文字之载.SVG|20px|则天文字之“载”]]」とは活字が異なるだけと考えられている<ref>《漢語大字典》:「同『載』,唐武則天所造字。」 </ref>。
|-
| 載 || {{Unihan|209CB}} || [[Image:则天文字之载.SVG|100px|则天文字之“载”]]|| 209CB ||「'''載'''」。「[[Image:则天文字之载正字.SVG|20px|则天文字之“载”正字]]」の異体字と考えられている<ref> 《新唐書·后妃伝上·則天武皇后伝》:「載初中,又享万象神宮,以太穆、文德二皇后配皇地祇,引周忠孝太后従配。作……、{{Unihan|209CB}}、……,十又二文。」 </ref>。
|-
| 初 || {{Unihan|21508}} || [[Image:则天文字之初.SVG|100px|则天文字之“初”]]|| 21508 ||「'''初'''」。「天」「明」「人」「上」をそれぞれ2つずつ合わせた字。「天の光明が世の中と土地を照らす」ことを意味している<ref>《字彙補》:「武則天所制『初』字。」 </ref>。
|-
| 年 || {{Unihan|20866}} || [[Image:则天文字之年正字.SVG|100px|则天文字之“年”正字]]|| 20866 ||「'''年'''」。「千千万万」の合字。周王朝が千千万万年続くという意味<ref>趙与時《賓退録·五》:「武后改易新字,如以山水土為地,千千万万為年,永主久王為証,長正主為聖。」</ref>。かつては「千千力力」の合字と考えられていたが、意味が通らない。あるいは「力」は「<span lang=zh-cn>卐</span>」(卍の鏡文字)が変体したものとも言われている。次の「[[Image:则天文字之年.SVG|16px|则天文字之“年”]]」に簡略化された。
|-
| 年 || {{Unihan|2099A}} || [[Image:则天文字之年.SVG|100px|则天文字之“年”]]|| 2099A ||「'''年'''」。「[[Image:则天文字之年正字.SVG|16px|则天文字之“年”正字]]」の横棒が省略された<ref>与「年」同,武則天制,見《大周泰山碑》。 </ref>。
|-
| 正 || {{Unihan|2067A}} || [[Image:则天文字之正.SVG|100px|则天文字之“正”]]|| 2067A ||「'''正'''」。古文に見られる「[[Image:古文之王字.SVG|16px|古文之“王”字]]」(「王」の異体字)を変化させた字と見られる<ref>《字彙補》:「武后所制『正』字。」</ref>。
|-
| 授 || {{Unihan|25893}} || [[Image:则天文字之授一.SVG|100px|则天文字之“授”一]]|| 25893 ||「'''授'''」。次の「[[Image:则天文字之授二.SVG|16px|则天文字之“授”二]]」と同じだが、こちらの方が用例が多い<ref>《集韻》:「承呪切,音『授』,付也。又姓出《姓苑》。」《字彙》:「唐武后改『授』作『{{Unihan|25893}} 』。」 </ref>。
|-
| 授 || {{Unihan|25822}} || [[Image:则天文字之授二.SVG|100px|则天文字之“授”二]]|| 25822 ||「'''授'''」。「[[Image:古文之授字.SVG|16px|古文之“授”字]]」(古文で「授」の字)から作られた新字で、上の「[[Image:则天文字之授一.SVG|16px|则天文字之“授”一]]」の代字<ref> 《集韻》:「授,或作『[[Image:则天文字之授一.SVG|16px|则天文字之“授”一]]』,唐武后改『授』作『[[Image:则天文字之授一.SVG|16px|则天文字之“授”一]]』。」 </ref>。当時の活字が手彫りだったため。
|-
| 証 || {{Unihan|24A89}} || [[Image:则天文字之证正字.SVG|100px|则天文字之“証”正字]]|| 24A89 ||「'''証'''」。「永主久王」の意味。次の「[[Image:则天文字之证.SVG|16px|则天文字之“证”]]」に取って代わられた<ref>《金石文字弁異》:「武后改易新字,以永主久王為証。」又趙与時《賓退録·五》:「武后改易新字,如以山水土為地,千千万万為年,永主久王為証,長正主為聖。」</ref>。
|-
| 証 || {{Unihan|28B7B}} || [[Image:则天文字之证.SVG|100px|则天文字之“証”]]|| 28B7B ||「'''証'''」。上の「[[Image:则天文字之证正字.SVG|16px|则天文字之“证”正字]]」の変体で「永主久王」の意。「求」は「永」の変体、「全」は「主」の変体、「金」は「久」と「王」の合字<ref>《集韻》:「証,唐武后作『 [[Image:则天文字之证.SVG|16px|则天文字之“証”]]』。」 </ref>。
|-
| 聖 || {{Unihan|28CA2}} || [[Image:则天文字之圣.SVG|100px|则天文字之“圣”]]|| 28CA2 ||「'''聖'''」。「長正主」の意で、聖親皇帝武則天が長久的正統的君主であることを表す。「镸」は「長」の異体字、「[[Image:古文之王字.SVG|16px|古文之“王”字]]」(古文で「王」)は則天文字「[[Image:则天文字之正.SVG|16px|则天文字之“正”]]」の原字である<ref> 《字彙補》:「武則天所制『聖』字。」見《大周泰山碑》。又趙与時《賓退録·五》:「武后改易新字,如以山水土為地,千千万万為年,永主久王為証,長正主為聖。」 </ref>。
|-
| 国 || {{Unihan|5700}} || [[Image:则天文字之国.SVG|100px|则天文字之“国”]]|| 5700 ||「'''国'''」。「八方土地」の意。原字「國」の「或」が「惑」に通じて不吉とし、変えられた。始めは「口」に武則天の「武」の字を入れた「[[Image:则天文字之国最初.svg|16px|则天文字之“国”最初]]」であり、武則天が国を治める、の意味であった。しかし「武則天が囚われているようで不吉だ」としてすぐに「八方」に再び改められた<ref>《玉篇》:「古文『國』字。」唐武后所作。《正字通》:「唐武后時,有言『國』中『或』者,惑也,請以『武』鎮之,又有言武在囗中,与困何異,復改為圀。」 </ref>。
|-
| 人 || {{Unihan|24BD4}} || [[Image:则天文字之人.SVG|100px|则天文字之“人”]]|| 24BD4 ||「'''人'''」。「一生」の意味で、人の生は一つだけということを表している<ref> 《字彙補》:「与『人』同,唐武后制。」 </ref>。
|-
| 幼 || {{Unihan|22217}} || [[Image:则天文字之幼.SVG|100px|则天文字之“幼”]]|| 22217 ||「'''幼'''」。<ref>《字彙補》:「与『幼』同,武則天制。」 </ref>
|-
| 生 || {{Unihan|20935}} || [[Image:则天文字之生.SVG|100px|则天文字之“生”]]|| 20935 ||「'''生'''」。<ref> 《宣和書譜》卷一:「(武后)增減前人筆畫,自我作古,為十九字,曰:……[[Image:则天文字之生.SVG|16px|则天文字之“生”]]。」 </ref>。
|-
| 応 || {{Unihan|20A4D}} || [[Image:则天文字之应.SVG|100px|则天文字之“应”]]|| 20A4D ||「'''応'''(應)」。<ref>《字彙補》:「同『應』,唐武后制。」見《大周泰山碑》。 </ref>
|}
<!--次の2節は省略します。
==日月当空曌==
==更改“国”字的传说==
-->

==則天文字が使われた例==
'''太字'''が則天文字に改められた箇所。
<br>
*'''天'''冊金輪'''聖'''神皇帝:[[Image:则天文字之天册金轮圣神皇帝.SVG|180px|则天文字之“天册金轮圣神皇帝”]]
:*注:'''天冊金輪聖神皇帝'''は武則天の[[尊号]]の一つ。武則天自身が『[[升仙太子碑]]』の中に記している。

*'''證聖'''元'''年'''九'''月'''九'''日''':[[Image:则天文字之证圣元年九月九日.SVG|180px|则天文字之“证圣元年九月九日”]]
:*注:「證聖」は武則天時代の年号の一つ。

*'''[[天授 (周)|天授]]'''二'''年正月初一''':[[Image:则天文字之天授二年正月初一.SVG|180px|则天文字之“天授二年正月初一”]]
:*注:「天授」は武則天時代の年号の一つ。「正月初一」は元日。

*'''君臣'''佳'''天地''':[[Image:则天文字之君臣佳天地.SVG|135px|则天文字之“君臣佳天地”]]
:*注:この語句は、[[五代十国時代|五代]][[詹敦仁]]『復留侯従効問[[南漢]][[劉龑]]改名龑字音義』に見られる。

==中国国外への影響==
[[Image:升仙太子碑拓片局部.jpg|200px|right|thumb|《升仙太子碑》局部]]
唐王朝は則天文字をすぐに撤廃したが、海外には広く伝わった。特に河西回廊(現[[甘肅省]])と西域(現[[新疆]]、[[中央アジア]])である。これらの地域では200年間使われた。(中国では150年間しか使われなかったのに。)[[敦煌]]では中国で失われていた『大雲経』『大雲経疏』といった書物が見つかり、貴重な研究資料になっている。

部分的にではあるが日本や韓国にも伝わった。例えば江戸時代の大名「徳川光國」は正しくは「德川光圀」と書かれる。これは「或」の字が「惑」に通じて不吉だったからとされている。また、本国寺は光圀から一字をもらって[[本圀寺]]となっている。そのため「圀」の字は、日本で最も有名な則天文字である。

武則天の[[碑刻]]は後世に数多く伝わっており、とりわけ彼女の自筆『[[升仙太子碑]]』が有名であり、「千古美文」と呼ばれている。右上の写真はその[[拓片]]で、自身の尊号「大周天冊金輪聖神皇帝」の天の字が「[[Image:则天文字之天手写.svg|20px|则天文字之“天”手写]]」に、聖の字が「[[Image:则天文字之圣.SVG|20px|]]」なっている。[[河南省]][[新安県]]鉄門鎮にある『千唐志斎碑刻』には、則天文字が数多く書かれている。

後世の[[南漢]]建国主君である[[劉ゲン|劉岩]]は武則天を真似て、自分の名を表す文字「龑」([[拼音]]:Yǎn,[[注音符号]]:ㄧㄢˇ)を創作した。この字は「天を飛ぶ龍」を表している。現代中国では略字「[[Image:龑 (簡體).svg|16px|「-{龑}-」字簡體]]」として書かれる<ref>『[[辞海]]·縮影本』[[1999年]]版に見える。</ref>。

近年では、漢字を使用する各国いずれとも漢字数が縮小される傾向にあり、則天文字が日常使用されることは希である。

==参考資料、注釈==
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<references />
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===その他参考文献===
*『伝奇太后之武則天』,[[黄正建]]([[中国社会科学院]]研究員)
*『武則天私秘生活全記録』,[[司馬路人]],中国戯劇出版社
*『則天造字と日本における「則天文字」の受容』、中国西北大学教授[[王維坤]],『古代の日本と渡来の文化』(ISBN 4311300352)81~94頁
*『則天文字の周圏論的性質について』、[[笹原宏之]],[[1987年]]

==外部リンク==
{{commons|Category:Chinese characters of Empress Wu|則天文字集}}
* [http://uk.geocities.com/dylanwhs/zi/zetian.htm ''Characters of Empress Wu ZeTian'']
* [http://homepage1.nifty.com/~petronius/kana/sokutenmozi.html 則天文字について]


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[超漢字]]
* [[超漢字]]
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[[vi:Võ Hậu Tân tự]]
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[[zh:则天文字]]
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2007年12月29日 (土) 04:28時点における版

則天文字 (そくてんもじ)とは中国武周朝を創始した女帝武則天が制定した漢字。則天新字武后新字とも言われる。六書の文字分類では象形文字あるいは会意文字である。

武則天が権力を誇示するため、あるいは個人的な好みや考えのため制定されたとされる。武則天が失脚するとほどなく忘れ去られた。日本で最も有名なのは「圀」の字で、徳川光圀の名前に使用されている。この字は「國」の「或」の部分が「惑」に通じるので不吉だと理由で「八方」という字が入れられた。

また、『「地」は「土」の上に「山水」がある』という理由から、代わりに「土」の上に「山水」を乗せる字「」が考案、使用された。

「臣」は「忠」を第一にせねばならないという考えから「忠」の上に「一」を乗せた字「」が「臣」の代わりに使用させられた。

武則天自身の名前「照」は「」となった。「空」の上に「日」「月」であり、この字は武則天のためだけの文字である。

概要

武則天は中国史上ただ一人の女帝であり、今までの慣わしを何でも改めるのが好きな人物であった。彼女が変更しなかったのは服装ぐらいのもので、まず国号からに変えた。改元は頻繁であり、官職名も変えた。中でも有名なのは、新たに字を作ったことである。彼女は自らの思想と政治力によって、あたかも服を着替えるかのように簡単に文字を変更した。この文字は後世「則天文字」と呼ばれるようになった。

例えば「天」の文字は则天文字之“天”手写に改められた。これは「天」の字の篆書体である。もっとも、このように形を変えただけの文字は例外であり、ほとんどの文字は新たに作られたものである。

則天文字が何文字あるかはよく分かっておらず、12、16、17、18、19、21個の各説があり、すべての説の文字をあわせると30字前後になる。もっとも、印刷や手書きの都合で異体字となっているものもあり、現在のところは17個説が有力である。

則天文字が使われたのはわずか15年間であったが、従来の文字にも影響を与えた。文化財などに書かれた文字を見ていくと、武則天の前後の影響がよくわかる[1]。武則天が退位した705年3月3日[2]、復位した中宗は国号を唐に戻した。則天文字は公式には廃止され、私文書においてもだんだんと廃れていった。現在中国では全く使われていない。もっとも当時の武則天の威光は絶大だったようで、海外にまで伝わっている。また、昔からよく文字研究の対象になっている。

則天文字の歴史

ファイル:WuZetian.jpg
大周の女帝武曌

※本項の月日は、漢数字のものは中国暦、算用数字のものは西暦である。

文字の創作と施行初期

新唐書」あるいは『資治通鑑』などの史書によると、則天文字は武則天が考えたものではなく、甥の宗秦客に命じて作らせたもののようである。

当初公表されたのは12文字であり、「照」、「天」、「地」、「日」、「月」、「星」、「君」、「臣」、「載」、「初」、「年」、「正」がそれぞれ『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』に改められた。このうち』と『』の2文字が組み合わされて年号「載初」として使われた。制定当時の武則天の言葉が『改元載初敕』の中に収録されている。

この時から武則天は名を武曌と改め、「曌」の字は避諱にあたるとして他人が使用するのを禁じた。同じ発音の「照」の使用も禁止された。当時退位させられていた中宗の長男(すなわち武則天の孫)李重照は、名を李重潤と改めさせられた。689年12月25日、則天文字は正式に公布された。

『旧唐書·藝文志』にも記録があり、「武則天は字大海(字書)100巻を作成し、その中に少なからず創作文字を入れた。それを武后新字あるいは則天文字という」と記されている。

文字の伝播と新たな文字の制定

載初元年(690年)七月、聖母神皇(即位前に武則天が自身をこう呼ばせた)の武則天は、仏典『大雲経』の中に「彌勒降生」、「女子為王」といったことが書かれていたことを利用して、洛陽白馬寺住持薛懐義に命じて注釈書『大雲経疏』を書かせ、その中で「武則天が皇位に就く事は仏典に定められていることだ」と宣伝させた。この本は全国各地に頒布され、この本と共に、則天文字も全国に広まった。なお、薛懐義は武則天の愛人であるとされている。

690年10月16日、この日は(中国暦で)重陽の節句であり、武則天は正式に皇位に付き、年号を載初から天授に改めた。天授年間、授の字がに変えられた。(天の字はすでにに変えられている。)證聖に改元されると、證の字はに、聖の字はに改められた。証聖元年(695年)六月下旬、國(国)の字がに改められた。聖暦年間(698年)、人の字に代わってが登場した。

則天文字は、以上の17字と考えられている。時に21字と言われることもあるが、これは昔の学者が唱えた説が未だに信じられているためである。

使用の廃止

則天文字は、武則天が皇位に就いていた[3]15年間(690年—705年)には広く使用されており、石碑や仏典などに盛んに記された。現存する武周時期(武則天の治世)の碑銘墓誌銘によく現されている。

武則天は705年に中宗に皇位を譲ると、まもなく他界した。中宗は全ての制度を昔の高宗永淳]時代に戻すように命じ、合わせて則天文字も廃止された。これに対して武則天の親戚の武三思らは、皇后の韋后や女官の上官婉児と結託して、張柬之ら重臣5名を追放し、権勢を揮った。これを機会に、時任左補闕権若訥は中宗に奏上し「則天文字を復活させることが他界した母親への孝行である」と提案した[4]。中宗は概ね権若訥の指示に従っていたが、則天文字の復活だけは認めなかった。文宗の治世となっていた開成二年(837年)十月、則天文字を元の文字に直すことを命じる詔書が改めて頒布された[5]。これは逆にいえば、この時まで則天文字が使われていたことを意味し、150年間通用していたことになる。

解説

原字 新字 新字拡大 Unicode 字義
则天文字之“照”一 66CC 」。武則天の名を表す。則天文字で最も有名なものの1つ。「日」と「月」と「空」を合わせたもので(異説もある)、武則天があまねく世界を照らしていることを意味する。日は陽の象徴、月は陰の象徴であり、武則天が陰陽調和し、男帝を含めた全ての皇帝の中で最も優れていることを示唆している。武則天はこの字を名にすることで、自らの正当性を主張した。
则天文字之“照”二 77BE 」。「曌」の異体字と考えられている[6]。あるいは字書の作者が「曌」の字を避諱してあえて間違った字を書いたとも言われている。
𠑺 则天文字之“天”一 2047A 」。詳細は次項则天文字之“天”二で。
𠀑 则天文字之“天”二 20011 」。天の字の篆書体をさらに活字体にしたものとみられる[7]则天文字之“天”一则天文字之“天”二も手書きにすると同じ「则天文字之“天”手写」であり、活字彫刻者の違いと見られる。
则天文字之“地” 57CA 」。「山、水、土」の3字を合わせたもので、「山」の「水」が「土」に到達する所、すなわち大地を意味する。ただし、この字は則天文字以前にも例がある[8]
𡆠 则天文字之“日” 211A0 」。この字は、中国神話中の太陽神鳥金烏を意味している[9]。「口」は手書きでは「○」になるので、実際には「则天文字之“日”正字」として使われており、この字も活字作者によって○が口に直されたものとみられる。
则天文字之“月”一 56DD 」。口は満月の輪郭を表し、「子」は中国神話に言う月のウサギか金の蛙を意味していると見られる[10]。「口」は満月を表しているので、次の「则天文字之“月”二」よりも好字の印象がある。現代中国では「仔」の異体字とされる。
𠥱 则天文字之“月”二 20971 」。「匚」は三ヶ月を表しており、「出」の字は中国神話に出てくる金のヒキガエルを意味している[11]。一説によると、「则天文字之“生”」(則天文字の「生」)の異体字である。
则天文字之“星” 3007 」。星の球形を表している。典型的な象形文字。現代中国では「0」と同義であり、「西暦二〇〇〇年」のように用いられる。
𠺞 则天文字之“君”正字 20E9E 」。「天大吉」の合字。その後、「则天文字之“君”一」に変化した[12]
𠁈 则天文字之“君”一 20048 」。上の字の異体字。印刷の都合でこう変わったらしい[13]
𠱰 则天文字之“君”二 20C70 」。これも印刷で生じた異体字[14]
𢘑 则天文字之“臣” 22611 」。「一忠」の合字で、「臣下は忠実一途であれ」を意味している[15]
𠀺 则天文字之“除” 2003A 」。「天興」を意味する。武則天の世は苛政が無く、弊政であり、新世界の到来であることを意味している[16]
𡕀 则天文字之“载”正字 21540 」。この字は「載」を変化させたものである。次の「则天文字之“载”」とは活字が異なるだけと考えられている[17]
𠧋 则天文字之“载” 209CB 」。「则天文字之“载”正字」の異体字と考えられている[18]
𡔈 则天文字之“初” 21508 」。「天」「明」「人」「上」をそれぞれ2つずつ合わせた字。「天の光明が世の中と土地を照らす」ことを意味している[19]
𠡦 则天文字之“年”正字 20866 」。「千千万万」の合字。周王朝が千千万万年続くという意味[20]。かつては「千千力力」の合字と考えられていたが、意味が通らない。あるいは「力」は「」(卍の鏡文字)が変体したものとも言われている。次の「则天文字之“年”」に簡略化された。
𠦚 则天文字之“年” 2099A 」。「则天文字之“年”正字」の横棒が省略された[21]
𠙺 则天文字之“正” 2067A 」。古文に見られる「古文之“王”字」(「王」の異体字)を変化させた字と見られる[22]
𥢓 则天文字之“授”一 25893 」。次の「则天文字之“授”二」と同じだが、こちらの方が用例が多い[23]
𥠢 则天文字之“授”二 25822 」。「古文之“授”字」(古文で「授」の字)から作られた新字で、上の「则天文字之“授”一」の代字[24]。当時の活字が手彫りだったため。
𤪉 则天文字之“証”正字 24A89 」。「永主久王」の意味。次の「则天文字之“证”」に取って代わられた[25]
𨭻 则天文字之“証” 28B7B 」。上の「则天文字之“证”正字」の変体で「永主久王」の意。「求」は「永」の変体、「全」は「主」の変体、「金」は「久」と「王」の合字[26]
𨲢 则天文字之“圣” 28CA2 」。「長正主」の意で、聖親皇帝武則天が長久的正統的君主であることを表す。「镸」は「長」の異体字、「古文之“王”字」(古文で「王」)は則天文字「则天文字之“正”」の原字である[27]
则天文字之“国” 5700 」。「八方土地」の意。原字「國」の「或」が「惑」に通じて不吉とし、変えられた。始めは「口」に武則天の「武」の字を入れた「则天文字之“国”最初」であり、武則天が国を治める、の意味であった。しかし「武則天が囚われているようで不吉だ」としてすぐに「八方」に再び改められた[28]
𤯔 则天文字之“人” 24BD4 」。「一生」の意味で、人の生は一つだけということを表している[29]
𢈗 则天文字之“幼” 22217 」。[30]
𠤵 则天文字之“生” 20935 」。[31]
𠩍 则天文字之“应” 20A4D (應)」。[32]

則天文字が使われた例

太字が則天文字に改められた箇所。

  • 冊金輪神皇帝:则天文字之“天册金轮圣神皇帝”
  • 注:天冊金輪聖神皇帝は武則天の尊号の一つ。武則天自身が『升仙太子碑』の中に記している。
  • 證聖则天文字之“证圣元年九月九日”
  • 注:「證聖」は武則天時代の年号の一つ。
  • 注:「天授」は武則天時代の年号の一つ。「正月初一」は元日。
  • 君臣天地则天文字之“君臣佳天地”

中国国外への影響

《升仙太子碑》局部

唐王朝は則天文字をすぐに撤廃したが、海外には広く伝わった。特に河西回廊(現甘肅省)と西域(現新疆中央アジア)である。これらの地域では200年間使われた。(中国では150年間しか使われなかったのに。)敦煌では中国で失われていた『大雲経』『大雲経疏』といった書物が見つかり、貴重な研究資料になっている。

部分的にではあるが日本や韓国にも伝わった。例えば江戸時代の大名「徳川光國」は正しくは「德川光圀」と書かれる。これは「或」の字が「惑」に通じて不吉だったからとされている。また、本国寺は光圀から一字をもらって本圀寺となっている。そのため「圀」の字は、日本で最も有名な則天文字である。

武則天の碑刻は後世に数多く伝わっており、とりわけ彼女の自筆『升仙太子碑』が有名であり、「千古美文」と呼ばれている。右上の写真はその拓片で、自身の尊号「大周天冊金輪聖神皇帝」の天の字が「则天文字之“天”手写」に、聖の字が「」なっている。河南省新安県鉄門鎮にある『千唐志斎碑刻』には、則天文字が数多く書かれている。

後世の南漢建国主君である劉岩は武則天を真似て、自分の名を表す文字「龑」(拼音:Yǎn,注音符号:ㄧㄢˇ)を創作した。この字は「天を飛ぶ龍」を表している。現代中国では略字「「-{龑}-」字簡體」として書かれる[33]

近年では、漢字を使用する各国いずれとも漢字数が縮小される傾向にあり、則天文字が日常使用されることは希である。

参考資料、注釈

  1. ^ 潘吉星, 論韓国発現的印本『無垢浄光大陀羅尼経』, 科学通報. 1997, 42 (10): 1009-1028.
  2. ^ 従両《唐書·則天后本紀》和《資治通鑑》,《唐会要·帝号上·中宗》作「二月初五」(3月4日),誤。
  3. ^ ただし、現代中国では「僭称」(即位を認めない)とされることが多い。
  4. ^ 権若訥の上奏は清の洪邁が著書『容斎随筆』・『容斎続筆』の中で述べている。
  5. ^ 北宋王欽若の編書『冊府元亀』。
  6. ^ 《字彙》:「同『照』。」按《正字通》:「唐武后自製十九字,以『瞾』為名,与『照』音義同,従明,非従二目也。後訛為『曌』。」《字彙》改作「瞾」,《字彙補》又作「曌」,並非。
  7. ^ 《漢語大字典》:「同『天』,唐武則天所造字。」
  8. ^ 《玉篇》:「古『地』字。《前漢·趙充国伝》:『令不得帰肥繞之。』」按《類篇》謂唐武后作,非。又趙与時《賓退録·五》:「武后改易新字,如以山水土為地,千千万万為年,永主久王為証,長正主為聖。」
  9. ^ 《集韻》:「入質切,同『日』。《説文》:『実也,太陽之精不虧,従囗,一象形。』唐武后作则天文字之“日”。」
  10. ^ 《集韻》:「魚厥切,音『刖』,与『月』同,武后所作。」
  11. ^ 《字彙補》:「与『月』同,武則天制。」見《大周泰山碑》。
  12. ^ 王三慶, 論武后新字的創製与興廃兼論文字的正俗問題, 成大中文学報. 2005-12, (13).
  13. ^ 《新唐書·后妃伝上·則天武皇后伝》:「載初中,又享万象神宮,以太穆、文德二皇后配皇地祇,引周忠孝太后従配。作……、则天文字之“君”一、……,十又二文。」
  14. ^ 《字彙補》:「唐武后所制『君』字。」
  15. ^ 《字彙補》:「古文『臣』字。」
  16. ^ 《新唐書·后妃伝上·則天武皇后伝》:「載初中,又享万象神宮,以太穆、文德二皇后配皇地祇,引周忠孝太后従配。作……、则天文字之“除”、……,十又二文。」
  17. ^ 《漢語大字典》:「同『載』,唐武則天所造字。」
  18. ^ 《新唐書·后妃伝上·則天武皇后伝》:「載初中,又享万象神宮,以太穆、文德二皇后配皇地祇,引周忠孝太后従配。作……、𠧋、……,十又二文。」
  19. ^ 《字彙補》:「武則天所制『初』字。」
  20. ^ 趙与時《賓退録·五》:「武后改易新字,如以山水土為地,千千万万為年,永主久王為証,長正主為聖。」
  21. ^ 与「年」同,武則天制,見《大周泰山碑》。
  22. ^ 《字彙補》:「武后所制『正』字。」
  23. ^ 《集韻》:「承呪切,音『授』,付也。又姓出《姓苑》。」《字彙》:「唐武后改『授』作『𥢓 』。」
  24. ^ 《集韻》:「授,或作『则天文字之“授”一』,唐武后改『授』作『则天文字之“授”一』。」
  25. ^ 《金石文字弁異》:「武后改易新字,以永主久王為証。」又趙与時《賓退録·五》:「武后改易新字,如以山水土為地,千千万万為年,永主久王為証,長正主為聖。」
  26. ^ 《集韻》:「証,唐武后作『 则天文字之“証”』。」
  27. ^ 《字彙補》:「武則天所制『聖』字。」見《大周泰山碑》。又趙与時《賓退録·五》:「武后改易新字,如以山水土為地,千千万万為年,永主久王為証,長正主為聖。」
  28. ^ 《玉篇》:「古文『國』字。」唐武后所作。《正字通》:「唐武后時,有言『國』中『或』者,惑也,請以『武』鎮之,又有言武在囗中,与困何異,復改為圀。」
  29. ^ 《字彙補》:「与『人』同,唐武后制。」
  30. ^ 《字彙補》:「与『幼』同,武則天制。」
  31. ^ 《宣和書譜》卷一:「(武后)增減前人筆畫,自我作古,為十九字,曰:……则天文字之“生”。」
  32. ^ 《字彙補》:「同『應』,唐武后制。」見《大周泰山碑》。
  33. ^ 辞海·縮影本』1999年版に見える。

その他参考文献

外部リンク

関連項目

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