里浜貝塚
里浜貝塚(さとはまかいづか)は、宮城県東松島市の松島湾中の宮戸島に存在する縄文時代を通して継続された貝塚である。国の史跡に指定されている。
概要
松島湾岸と湾内の島々に貝塚群が59カ所あり、その中でも里浜貝塚は、日本国内でも最大規模をもつ代表的貝塚の一つである。 島内西側のなだらかな丘陵に集落があり、その斜面に貝塚が各所に形成されている。 集落は約6000年前の縄文時代前期に始まり晩期まで長期間続いた。 貝塚は東西800メートル、南北約200メートルの範囲に散在している。 貝層は、場所によっては厚さが6メートルにも及ぶ。 土器や石器のほか多種多様な骨角器、動物遺体が出土している。 植物質食料では、クリ、クルミ、ドングリの種子や殻の炭化物が少量出土した。 製塩遺構も確認されている。
四季を通じて食べ物を得る
四季による気候の変化がはっきりしている日本では、季節ごとに得られる食材が違ってくる。 里浜遺跡発掘調査で、縄文人は食料を獲得し、それを消費する計画「生業カレンダー」をもっていたことが明らかにされた。
実りの秋には、トチ・クリ・ハシバミなどの堅果類、キノコ、ヤマユリ・ヤマノイモなどの根茎類、春にはフキノトウ・アサツキ・セリ、ゼンマイ・ワラビ・コゴメなどの採集、海からは海草、春から夏にかけてイワシ、初夏にはスガイ・アサリ、夏にはアジ・サバなどを採集・狩猟・漁労などで得ることが出来た。また、獲得する量の違いがあれど年間を通してシカやイノシシ、トリを、漁労ではアイナメ・メバル類・ウナギ、スズキなどを得た。各季節でとれたものを計画的に保存し、食料獲得量の少ない冬や夏に消費された。
保存施設として、この時代を通しておもに秋に採集した堅果類を貯蔵する貯蔵穴[1]が各地で発見されている。
食べ物を十分に獲得できるようになるのは、やはり、縄文早期では十分とは云えず、遅くとも前期までには食糧資源に恵まれるようになった。その例としては前期の鳥浜貝塚がある。
脚注
- ^ 穴は、開口部に対し、底部が広いのが一般的。草創期には出現しており弥生時代まで存在する。低地に設けて水漬けにする湿式と台地に設ける乾式のものが知られている。
参考文献
- 泉拓良「縄文人は何を食べていたか」広瀬和雄編『考古学の基礎知識』角川選書409 ISBN 978-4-04-703409-9
関連項目
座標: 北緯38度20分9.38秒 東経141度8分42.94秒 / 北緯38.3359389度 東経141.1452611度