那須博之
那須 博之(なす ひろゆき、1952年1月27日 - 2005年2月27日)は、日本の映画監督。東京都出身。妻は脚本家の那須真知子。
来歴・人物
父は建設会社社長。東京都立西高等学校、東京大学経済学部卒業。大学在学中はワンダーフォーゲル部に所属し、山登りに熱中。そんな折に映画『仁義なき戦い』を見て強い衝撃を受け、アクション映画監督を志し日活に助監督として入社した。[1]。1982年に日活ロマンポルノ『ワイセツ家族 母と娘』で監督デビューする。ポルノ畑で修業を積んだのち、1985年に念願叶って手がけた初のアクション映画『ビー・バップ・ハイスクール』のヒットで注目され、同シリーズを立て続けに成功させて一時代を築く。また同作品では仲村トオルをオーディションで見出し、デビューへと導いた。
那須が監督を担当した作品のうち、『ビー・バップ・ハイスクール』以降はその全ての脚本を妻の那須真知子が手がけている。『デビルマン』においては、「シナリオライターの卵20人にシナリオを書かせたが、満足のいくシナリオが無かった」ため、真知子を起用したと語っている[2]。が、破綻したシナリオを採用したことを作家の山本弘は「この際、『脚本は監督の奥さんに書かせたらあかん』という条項もつけ加えるべきかもしれんな(笑)。」と揶揄している[3]。完成した作品も「学芸会レベル」の演技やデタラメな展開等が集中砲火のように非難され、結果としてこの作品はあらゆる方面からの批判やバッシングの矢面に立たされ、制作費10億円に対し興行収入が5億円(興行収入は末端売上なので、通常は制作費の数倍は計上しないと採算が取れない)という事態を招いている。更に文春きいちご賞(文藝春秋)と蛇いちご賞(スポーツ報知)の第1回となる2004年度では最低映画賞となった『デビルマン』と並んで最低監督賞をダントツで同時受賞するという不名誉な結果も残した。
2005年2月27日、肝臓がんのため53歳で死去した。同年には遺作となった『真説タイガーマスク』が発表された。
主な監督作品
- 女子大生 縛り・初体験 [生撮りビデオ](1981年)
- 縛り・金瓶梅 [生撮りビデオ](1982年)
- ワイセツ家族 母と娘(1982年)
- セーラー服 百合族(1983年)
- セーラー服 百合族2(1983年)
- 姉日記(1984年)
- ルージュ(1984年)
- ヴァージンなんか怖くない(1984年)
- 美少女プロレス 失神10秒前(1984年)
- タブーX倒錯(1985年)
- ビー・バップ・ハイスクール (1985年)
- 紳士同盟(1986年)
- ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌 (1986年)
- 新宿純愛物語(1987年)
- ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎行進曲 (1987年)
- ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎狂騒曲 (1987年)
- ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎音頭 (1988年)
- ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎完結篇 (1988年)
- 右曲がりのダンディー(1989年)
- 代打教師 秋葉、真剣です!(1991年)
- ろくでなしBLUES(1996年)
- 地獄堂霊界通信(1996年)
- 新・湘南爆走族 荒くれKNIGHT4(1998年)
- 新・湘南爆走族 荒くれKNIGHT3(1998年)
- あばれブン屋(1998年)
- 実録外伝 武闘派黒社会(1999年)
- モー娘。走る! ピンチランナー(2000年)
- デビルマン(2004年)
- 真説タイガーマスク(2005年)
脚注
- ^ 日本テレビ「おもいッきりイイテレビ」内「きょうは何の日」 2005年2月27日放送分。
- ^ 映画「デビルマン」公式完全バイブル
- ^ 山本弘の『SF秘密基地』内の「『デビルマン』は映画ファン必見だ!」。