訖解尼師今
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(訖解王から転送)
訖解尼師今 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 흘해 이사금 |
漢字: | 訖解尼師今 |
発音: |
フルヘ・イサグム (フレ・イサグム) |
日本語読み: | きっかい・にしきん |
ローマ字: | Heulhae Isageum |
訖解尼師今(きっかい にしきん、生年不詳 - 356年)は、新羅の第16代の王(在位:310年 - 356年)であり、姓は昔氏。第10代奈解尼師今の孫であり、父は昔于老、母は第11代助賁尼師今の娘の命元夫人。先代の基臨尼師今が310年6月に薨去したときに嗣子がなかったため、群臣が訖解を推挙して王につけた。『三国遺事』王暦では乞解尼叱今と記される。
治世
[編集]312年、倭国王から王子の通婚のための使者を送ってきたが、阿飡(6等官)の急利[1]の娘を嫁として送った。この後、344年にも倭国は使者を送って通婚を求めてきたが、今度は娘は嫁に行ったとして断った。このため、翌345年には倭国は国書を送ってきて国交が途絶え、346年には倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐飡の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却しようとした倭軍を追撃して敗走させた[2]。
この間、337年2月には百済に使者を送って国交を開こうとしている。
内政面では、日照りが続いたことを受けて、灌漑のために330年に岸の長さが千八百歩にもなる碧骨池[3]を築いた。
在位47年にして356年4月薨去した。埋葬地は伝わらない。子がなかったために王位は金氏に移り、訖解尼師今は昔氏王統の最後の王となった。
脚注
[編集]- ^ ただし、急利はこの直前の訖解尼師今2年(311年)1月に阿飡の位に上がると同時に政務と軍事の統括を任されている。王の即位後すぐに有力者に政務と軍事とを委任する場合には伊伐飡(1等官)の官位に引き上げられることが多い。→儒礼尼師今2年(285年)2月条、味鄒尼師今2年(263年)正月条など。また、急利は314年1月に伊飡(2等官)に引き上げられている。
- ^ 『三国史記』新羅本紀 第十六代 訖解尼師今
- ^ 『三国遺事』王暦には「己丑始築碧骨堤。周■万七千二十六歩、■■百六十六歩。水田一万四千七十結。」とある。碧骨堤は全羅北道金堤市に現存し、1975年の発掘調査の結果、創建時代のものと思われる堤(高さ4.3メートル、長さ約3キロメートル)や水門が確認されている。
参考文献
[編集]- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5
- 『三国遺事』坪井九馬三・日下寛校訂<文科大学史誌叢書>東京、1904(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)