神武王

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神武王
Silla-monarch(42-52).png
各種表記
ハングル 신무왕
漢字 神武王
発音 シンムワン
日本語読み: しんぶおう
ローマ字 Sinmu Wang
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神武王(しんぶおう、生年不詳 – 839年)は新羅の第45代の王(在位:839年)であり、姓は金、は祐徴[1]。第38代元聖王の曾孫であり、父は上大等金均貞、母は朴氏の真矯夫人、王妃は貞継夫人[2]。839年1月19日[3]に先代の閔哀王を殺して王位に就いた。

即位まで[編集]

42代興徳王の3年(828年)1月には大阿飡(5等官)の位にあって侍中に抜擢されたが、831年1月には王都金城(慶尚北道慶州市)に起こった地震のために侍中を免職された。834年1月には再び侍中に返り咲いたが、835年2月に父の金均貞が上大等に就任すると、祐徴は上表して侍中職を辞任した。このときに後任の侍中になったのが金明(後の閔哀王)だった。

興徳王の死後、上大等職にあった父均貞とその甥の金悌隆(後の僖康王)との間に王位継承をめぐって争いが起こった。騒乱の中で均貞が死んで僖康王が即位すると、祐徴らは清海鎮(全羅南道莞島郡)大使の張保皐を頼って落ち延びていった。その後、僖康王を擁立した金明が反乱を起こし、僖康王を殺して838年1月に閔哀王として即位すると、祐徴派は同年3月から閔哀王を討つための軍事行動を開始した。結果として祐徴の将軍の金陽が王都に迫り、839年1月19日に閔哀王を殺害した。祐徴は王の儀礼を以て閔哀王の屍を埋葬し、また、古礼に則って即位式を執り行い、王位を継承した。

即位後[編集]

即位後に王の祖父・父・母を追封し[4]、子の金慶膺(けいよう、後の文聖王)を太子とした。また、閔哀王との戦いで功績の大きかった張保皐を感義軍使に任命し、食邑2千戸を賜るとともに張保皐の娘を太子の嫁に迎える約束を取り付けた。王礼に基づく前王の埋葬、古礼に則った即位の儀式など王位の尊厳を明確化するとともに、地方勢力との結合を図ったものと見られている[5]

839年7月には前々代の僖康王の代から送ることができていなかったに対して使者を派遣し、淄青山東省)の節度使に奴婢を送った。唐の文宗はこのことを聞いて、遠方の人であることを憐れんで新羅に帰国させたという[6]。同月(7月)神武王は病に倒れ、23日に死去した[7]。神武とされ、弟兄山の西北に埋葬されたという。その王陵は慶州市東方洞の史跡第185号が比定されている。

脚注[編集]

  1. ^ 三国遺事』王暦では諱は佑徴とする。
  2. ^ 『三国遺事』王暦では、貞従夫人または貞継夫人とし、明海■■の娘とする。文科大学史誌叢書版の頭注では「角干」が脱落したものとしている。→[1]
  3. ^ 『三国遺事』王暦では、閔哀王の死去を1月22日とする。
  4. ^ 祖父礼英を恵康大王、父均貞を成徳大王、母を憲穆太后と追封した。
  5. ^ しかし、王都の貴族たちは出自の明確ではない張保皐を迎え入れることを拒み、文聖王の時代になって張保皐との約束を反故にしたばかりでなく却って暗殺し、相変わらずの貴族間の覇権争いを続けることとなった。→井上1972 pp.244-245. 張保皐を暗殺するにいたる経緯は『三国史記』新羅本紀では文聖王代のこととして記されているが、『三国遺事』紀異・神武王閻張弓巴条には、神武王代のこととして記されている。
  6. ^ 『三国史記』新羅本紀・神武王秋七月条によるが、同文は『冊府元亀』巻九百八十・外臣部・通好 開成三年(838年)秋七月条を引用したものであり、1年の誤差が見られる。→井上訳注1980 p.358. 注92
  7. ^ 『三国遺事』王暦では、同年11月23日に死去したとする。文科大学史誌叢書版では本文は七月とし、頭注で「原本には七月とあるが十一月に改める」としている。→[2]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]