藤原敦光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。豆もち (会話 | 投稿記録) による 2014年4月2日 (水) 12:42個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

藤原敦光/菊池容斎『前賢故実』より

藤原 敦光(ふじわら の あつみつ、康平6年(1063年) - 天養元年10月28日1144年11月24日))は、平安時代後期の文人儒学者藤原式家右京大夫藤原明衡の子。官位正四位下式部大輔

経歴

4歳で父・明衡に死別し、兄・敦基の養子として育つ。嘉保元年(1094年)に官吏登用の対策に及第して、承徳2年(1098年)に式部丞に任命される。大内記文章博士大学頭を経て、保安3年(1122年)に式部大輔となる。保延元年(1135年)に発表された天変地異飢饉盗賊に関する「勘申」を始めとして、漢文を書く能力によって認められ、堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇の三代に侍読として仕え、彼の手になる詔勅は多い。しかし儒官の功労による参議任官はかなわなかった。天養元年(1144年)4月に病のため出家し、その年の10月28日に没した。享年82。

作品・著作

  • 「柿本朝臣人麿画讃」「白山上人縁起」含め51編の漢文…『本朝続文粹』所収
  • 『朝野群載』『表白集』所収の80編余の漢文
  • 本朝無題詩』所収の漢詩60編余
  • 金葉和歌集』所収の和歌2首
  • 『続本朝秀句』『本朝帝紀』の著作があったが散逸。
『古今著聞集』哀傷より
往事渺茫共誰語 往事渺茫 誰と共に語らん
閑庭唯有不言花 閑庭 唯だ言わざるの花有り

系譜

  • 父:藤原明衡
  • 母:平実重の娘
  • 妻:源親長の娘
  • 妻:大中臣輔清の娘
  • 生母不詳の子女
    • 男子:淳仁
    • 男子:喜覚
    • 男子:光縁
    • 男子:明覚
    • 男子:顕豪
    • 男子:光猷
    • 男子:頼円
    • 女子:不詳 - 号姫子
    • 女子:

参考文献

  • 『本朝続文粹』(黒板勝美編『新訂増補国史大系』、第29下巻所収)
  • 朝野群載』(黒板勝美編『新訂増補国史大系』、第29上巻所収)
  • 古今著聞集』(黒板勝美校訂、岩波文庫、1940年)
  • 古事談』(小林保治校注、現代思潮新社、2006年)
  • 藤岡作太郎『国文学全史』・4(講談社学術文庫、1977年)
  • 中川徳之助「詩・酒・仏」(『国文学攷』15、1956年)[1]
  • 大曾根章介「院政期の一鴻儒 -藤原敦光の生涯-」(『国語と国文学』第54巻の8、1977年)