蒲生郷安

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蒲生 郷安(がもう さとやす、生年不詳 - 慶長5年(1600年)?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は四郎兵衛。蒲生氏筆頭家老。

生涯

初め赤座隼人と名乗り、六角氏に仕えた。主家の没落後は浪人して後に蒲生氏郷に仕官した。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、氏郷の命を受け織田信長の一族を保護して日野城に入った。天正15(1587年)、豊臣秀吉九州征伐で戦功を挙げ、のちに蒲生姓を許され、蒲生郷安と名乗った。蒲生氏の会津転封に従い、猪苗代城代となる。その後は葛西大崎一揆では町野繁仍と共に二番手の大将として活躍し、九戸の乱などに従軍し、長沼城主となり、3万500石を知行した。また出羽置賜郡が蒲生氏の支配下に置かれると米沢城主となり[1]、7万石を知行して仕置奉行(家老)の筆頭となった。

天正19年(1591年)には蒲生家家中最高の7万石を知行したが、氏郷の死後、後を継いだ秀行の代に郷安の専横ぶりに不満のあった同僚の蒲生郷可蒲生郷成らと対立し、間もなく秀行の寵愛を受けた小姓の亘理八右衛門を上意討ちの名目で殺害したことにより、豊臣秀吉に讒言されて蒲生家を追放されて加藤清正の預かりとなった(蒲生騒動)。

初め徳川家康の取り成しで石田三成の預かりになるはずであったが、秀行に疎まれたために加藤清正の預かりとなったといわれる。また郷安はキリシタンであったといわれ、そのことでのちに小西行長の預かりとなった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで東軍に属した加藤清正の宇土城攻めの際、捕縛されたのちに殺害されたとも合戦に参加して戦死とも伝えられる。しかし、小西氏側の資料に記載がないことから定かではない。

脚注

  1. ^ 小野 2006, p. 69.

参考文献