菅島事故

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菅島事故(すがしまじこ)は、1983年(昭和58年)4月19日菅島で発生した、航空自衛隊C-1輸送機2機の連続墜落事故。

1957年3月のC-46輸送機の事故以来26年ぶりの輸送機による事故で、乗員計14名が殉職する惨事となった。自衛隊発足後、2021年現在までにおいて10名以上の殉職者が出たのは本事故と陸上自衛隊少年工科学校12期生渡河訓練事故、 豊後水道で洋上離着水訓練中に墜落し転覆大破したUS1-9080号機の事故のみである。

概要[編集]

小牧基地第1輸送航空隊所属のC-1輸送機が、入間基地へ向かうため6機編隊で飛行中、1番機(シリアルナンバー58-1009)と2番機(68-1015)が菅島の大山(標高236m)に相次いで墜落。乗員14名が死亡した。後続の4機は引き返したため無事だったが、3番機も樹木と接触し損傷していた。事故当日の東海地方の天候はIMC(計器気象状態)で海上には濃霧警報がでており、悪天候のなかコースを誤ったことが原因とされる。

経緯[編集]

事故発生[編集]

第1輸送航空隊所属のC-1輸送機は、東富士演習場での陸上自衛隊の降下訓練支援のため、愛知県の小牧基地を離陸した後、多治見伊良湖岬御前崎沼津横須賀を通過し、埼玉県入間基地へ向かう計画であった[1]。1番機には機長A 三等空佐(当時39歳)以下8名、2番機には機長B 一等空尉(当時33歳)以下6名が搭乗していた。

事故当日の東海地方の天候は悪く、名古屋空港[2]の午前7時時点の気象状態は視程3.2km・雲高850mで、低視程のためIMC(計器気象状態)だった[3]。しかし、関東地方の天候を考慮し、計器飛行方式(IFR)ではなく特別有視界方式(スペシャルVFR)での飛行計画運輸省航空局の名古屋空港事務所に提出し、飛行許可を得た[3]。なお、民間航空機は運航を見合わせていた[3]

C-1編隊6機は、4番機を先頭に、15秒間隔で離陸した[4]。4番機は気象偵察を兼ねており、予定通り多治見を通過して南進。伊良湖岬を通過後は東進し浜名湖南方まで飛行していた。しかし1番機以下5機は伊良湖岬から南西に13kmズレたコースを通過し、その後も東進せず、菅島上空に到達した。4番機の偵察情報では伊良湖岬付近の気象状態は、視程1500m・雲高300mでVMC(有視界気象状態)の下限ギリギリだった[4]

菅島上空付近で、編隊長のA三佐が東進を指示。この時の高度は約180mであり、後続機もこれに従った。午前7時17分頃、菅島の住民が鋭い金属音を聞いた後、1番機が墜落炎上した[5]。さらに同19分頃、2番機から左翼前端と胴体下部を損傷したため、燃料の投棄後帰投する旨連絡が入る。これを最後に2番機は消息を絶った[1]

3番機機長のCは、機体への衝撃と樹木との接触による損傷を確認したため、小牧基地への緊急着陸を連絡。この様子を聞いた4番機が5・6番機も含めた全機への引き返しを指示した。

遺体と残骸の回収[編集]

4月19日午後までに、大山山腹で1番機の残骸(機体番号を確認)と乗員8名の遺体が発見された。2番機も大山で発見されたが、残骸は1番機よりも広範囲に散乱していた。2番機乗員は20日未明までに4名、20日午前中に2名の遺体が発見された[6]

原因解明へ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 1983年4月19日 朝日新聞(夕刊)「自衛隊機墜落、1機も不明 8人死に6人絶望」
  2. ^ 現在の名古屋飛行場。小牧基地と共用。
  3. ^ a b c 1983年4月19日 朝日新聞(夕刊)「悪天候に訓練強行 予定コースはずれる?」
  4. ^ a b 1983年4月20日 朝日新聞「隊長機判断誤る? 2番機も残骸で発見」
  5. ^ 1983年4月19日 朝日新聞(夕刊)「濃霧破る大音響 自衛隊機墜落 山林に飛び散る機体」
  6. ^ 1983年4月20日 朝日新聞(夕刊)「自衛隊機墜落 14名の遺体確認 機体回収、原因究明へ」