米倉健司
基本情報 | |
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本名 | 米倉 健治 |
階級 | フライ級 |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1934年5月25日(90歳) |
出身地 | 福岡県直方市 |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 24 |
勝ち | 13 |
KO勝ち | 1 |
敗け | 10 |
引き分け | 1 |
米倉 健司(よねくら けんじ、1934年5月25日 - )は、日本の元プロボクサー。現在はヨネクラボクシングジム会長。日本プロボクシング協会常任相談役。日本ボクシングコミッション役員実行委員。本名は米倉 健治。プロボクサー時代のリングネームは米倉 健志。福岡県直方市出身。
来歴
アマチュア
福岡県立福岡高等学校在学中にアマチュアボクシングを始めインターハイ出場、明治大学経営学部在学中、全日本アマチュアボクシング選手権大会フライ級制覇、メルボルンオリンピックに日本代表選手として出場。3回戦まで進んだ。在学中は大学の先輩である田中敏朗のアパートに居候。
卒業後の1957年、米国シアトルで行われた世界ゴールデングローブに日本代表として出場。
プロ
1958年、田中を追い日興ジム所属でプロ転向。6月27日のデビュー8回戦で木村七郎相手に4R負傷判定勝ち。
1959年1月4日、福本篤人を倒し当時の最短記録となるプロ5戦目で日本フライ級王座獲得。同年8月、パスカル・ペレス(アルゼンチン)が持つ世界フライ級王座に挑戦したが敗退。9月10日に日本フライ級王座を返上。
1960年1月6日、レオ・エスピノサ(フィリピン)に勝利し、OBF(現OPBF)東洋バンタム級王座を獲得。
同年5月、2度目の世界挑戦となるジョー・ベセラ(メキシコ)が持つ世界バンタム級王座に挑むが敗退。
その後、東洋バンタム級タイトル5度防衛を成功させる。
1962年10月29日、青木勝利に12R判定で敗れ王座陥落。引退を表明。
ヨネクラジム
1963年、ヨネクラボクシングジムを開設。柴田国明、ガッツ石松、中島成雄、大橋秀行、川島郭志の5人の世界王者、30人以上の日本王者を育てる。
1986年から1989年まで全日本ボクシング協会の会長を務める。身長の低い選手はファイターに、長身の選手はアウトボクサーになるよう指導する等というのが、現代ボクシングの指導方針であるが、米倉会長はその選手の性格に合ったボクシングスタイルを見つけ、育てることを信条としている。
1995年3月29日、スポーツ功労賞を授与される。
70代後半を迎えた現在もなお指導に熱を入れている。
2008年6月24日、日本ボクシングコミッションは、公務執行妨害事件により有罪判決を受けたヨネクラジム所属の保住直孝、矢島拓也を無期限資格停止処分とし、米倉を厳重注意処分としたが[1]、米倉は両選手を解雇する意思はないことを表明した[2]。
脚注
- ^ 【法廷から】若きプロボクサーはなぜ警官を殴ったか(1/2ページ)・(2/2ページ) 産経ニュース 2008年5月28日閲覧
元王者保住ら2選手のライセンス「無期限停止」 「月刊ボクシングワールド」オフィシャルサイト 2008年6月24日閲覧 - ^ 元王者の保住選手が無期限資格停止 サンケイスポーツ 2008年6月24日閲覧
関連項目
外部リンク
空位 前タイトル保持者 矢尾板貞雄 |
第20代日本フライ級王者 1959年1月4日 - 1959年9月10日(返上) |
空位 次タイトル獲得者 福本篤人 |
前王者 レオ・エスピノサ |
第7代OBF東洋バンタム級王者 1960年1月6日 - 1962年10月29日 |
次王者 青木勝利 |