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童貫

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童貫
太尉・領枢密院
出生 生年不詳
死去 1126年
海南島近海
道夫
主君 徽宗欽宗

童貫(どうかん、? - 1126年)は、北宋末の政治家軍人宦官。字は道夫(どうふ)。開封の人。去勢され男性機能を失ったはずの宦官でありながら、多くの妻妾と養子を持ち筋骨隆々とした体躯で顎鬚まで生えていたという怪人物。

略歴

書画骨董の目利きであった事から、徽宗に気に入られ、宰相蔡京と結託して権勢を極め、また兵法にも凝っていたため禁軍の頂点に君臨し、二十年近く兵権を掌握した。しかし、徽宗の贅沢を助長させたため民衆からは怨嗟の対象とされ、蔡京、花石綱等で江南の民を疲弊させた朱勔李彦王黼梁師成と共に「六賊」の1人に挙げられた。また軍費を着服し私腹を肥やしていたという。後の北宋末を舞台にした小説『水滸伝』でも四奸の1人とされ悪役になっている。

軍事的な手腕と生涯

童貫は宦官ではあったが、軍人の道を選び、軍を率いて西夏やチベットと戦い大功を立て、以後20年に渡って兵権を掌握した。1111年には太尉、領枢密院にまで昇進し、その位階は三公に比肩した。

1120年、北宋は女真族の立てた新興国のと結んで(海上の盟)、を挟撃し、遼の支配下にあった北方の燕雲十六州を奪還しようと試み、当時宋軍の総帥の地位にあった童貫自らが軍を率いてこれに当たった。

しかし軍事行動を起こそうとした矢先、江南方臘の指導する大規模反乱が勃発した。童貫は燕雲十六州攻撃の為に編成した軍から十五万の南征軍を編成し自ら方臘の軍の鎮定に当った。方臘の抵抗は苛烈なもので、童貫は江南の住民数十万人を殺戮した末に、王淵麾下の将校の韓世忠の活躍などもあり1121年四月、方臘を捕えこれを処刑した。

一方金軍の猛攻の前に遼の天祚帝は逃亡し、遼の将軍耶律大石等は逃亡した天祚帝を帝とは認めず耶律淳を擁立して燕雲十六州をもって北遼を建国する。

1122年童貫は十五万の大兵力を率いて北遼侵攻を開始した。燕京を守る耶律大石らの抵抗は頑強であり、初戦で童貫軍は国境線である白溝河にまで後退を余儀無くされ、隘路で追撃を受け大打撃を受けた。

その後怨軍の指揮官郭薬師が宋に寝返り、同年6月24日、北遼の耶律淳が病死したので童貫は劉延慶に軍を指揮させ燕京奇襲を実行させた。劉延慶の奇襲は成功しかけ、耶律大石を燕京での市街戦にまで追い込んだがここでの耶律大石の抵抗は激烈で結局の劉延慶は敗走した。耶律大石らは総攻撃を仕掛け、童貫の軍は左右から包囲攻撃を受け、宋の禁軍はこの一戦で壊滅してしまった。

さらに童貫は北遼の宰相李処温と内通し、これを寝返らせることに成功したが、この諜略は耶律大石に露見し、李処温は耶律大石に処刑された。

万策尽きた童貫は自力での燕京攻略は不可能であると判断し、阿骨打に救援を依頼した。阿骨打は北方より三路から燕京を攻撃し、耶律大石は居庸関で抵抗を試みたが失敗し金軍に捕えられた。阿骨打は燕京の人や物資を略奪した上で事実上の空城を童貫に明け渡し多額の歳幣を宋に請求した。

その後、1123年に金に攻め込まれたときは太原に駐屯していたが「すみやかに山西と河北の地を割譲し、黄河を境界に宋の保全をはかるがよかろう」と金に脅迫され、部下を見捨てて敵前逃亡する失態を犯す。欽宗即位後、開封の太学生陳東らに、六賊と弾劾され、その責任を糾弾されて海南島に流される途中でさらに死罪を賜り、特命を受けた御史張徴の手で私刑同然に斬首された。童貫の首は鉄のように固く、門の敷居を断頭台代りにしてやっと切り落とすことが出来たと伝えられている。

参考・引用文献