韓世忠

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韓世忠
Four Generals of Song.jpg
南宋劉松年による『中興四将岳飛張俊・韓世忠・劉光世図』。韓世忠は右から4人目。
上級将校
出生 1088年
延安
死去 1151年
良臣
別名 万人敵
主君 徽宗欽宗高宗

韓 世忠(かん せいちゅう、1088年 - 1151年)は、中国軍人。姓は韓で、名は世忠、字は良臣。武勇に優れた抗金の名将で、一人で一万人に匹敵するということから万人敵と呼称される。なお、彼の妻である梁紅玉もまた夫とともにと戦った。夫婦は仲は非常に睦まじかったという。

経歴[編集]

延安の貧家に生まれる。18歳のとき募集に応じて兵と成り、軍人としての生涯を送ることになる。1105年崇寧4年)、西夏が境を犯すとこれに出撃。大功をたてるが、童貫の評価は芳しいものではなかった。

1120年宣和2年)、方臘の乱が起きる。韓世忠は王淵指揮下の将校として鎮圧に従事する。反乱軍を破り、ついには方臘を捕虜にすることに成功した。このとき、韓世忠の活躍がめざましく、王淵から「万人敵」と賞賛される。しかし、方臘を捕らえた功績は辛興宗に奪われてしまう。また水滸伝においてもこの功績は魯智深のものにされてしまっている。

1121年(宣和3年)にも金を大敗させ、盗賊を捕らえている。また、金の侵入により王帥数万が敗走するなか、一人で敵の包囲を破り、なんとか欽宗を逃亡させることに成功している。

靖康の変1126年)の後、高宗を済州まで護衛し、以降は抗金闘争に明け暮れることになる。「黄天蕩の戦い」では妻の梁紅玉とともに8千の兵で金の10万という数の差を巧みに水撰で覆し、金兵2万5千を倒すという殊勲を挙げる。また、1134年紹興4年)には高宗から「中興の武功第一」と称された。

1141年(紹興11年)、秦檜が金との和平を進める中、岳飛は無実の罪で殺され、韓世忠も兵権を奪われる。兵権を奪われたのちは隠退し、自ら清涼居士と号し悠々自適の人生を送った。隠退後は、客が来ればもてなすが、二度と兵事を語らなかったという。

逸話[編集]

  • 妻の梁紅玉はもともと妓女であったが、客として現れた当時下級軍人にすぎなかった韓世忠を気に入って、押しかけ女房のように嫁いだと言われる。夫婦仲は非常に良好であった。
  • 韓世忠よりだいぶ年下でありながら出世のスピードが早かったためか、岳飛との関係は好ましいものでなかったという。もっとも、いつしか韓世忠と岳飛の関係はかなり改善されたようである。
  • 紹興11年に岳飛が無実の罪で投獄されると、韓世忠は秦檜に対し「岳飛に対し謀反の証拠があるのか」と意見している。これに対し秦檜が「莫須有(あったかもしれない)」と答えると、「莫須有の三文字で天下を納得させることができるものか!」と怒鳴りつけたという(この部分の出典は『宋史』365巻、岳飛伝)。


伝記資料[編集]

  • 宋史』巻三六四「韓世忠伝」

関連書籍[編集]

韓世忠の息子である韓子温を主人公にした小説。

脚注[編集]

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