秋山虎繁
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 大永7年(1527年) |
死没 | 天正3年11月21日(1575年12月23日) |
別名 | 信友(『国志』)、膳右衛門尉、伯耆守(通称)、晴近、虎繁(別名) |
主君 | (武田信虎→) 晴信(信玄)→勝頼 |
氏族 | 秋山氏(武田氏・甲斐源氏) |
父母 | 父:秋山信任 |
兄弟 | 虎繁、信藤 |
妻 | 正室:おつやの方(織田信長の叔母)? |
子 | 養子:昌詮、親久(共に土屋昌次の弟) |
秋山 虎繁/晴近/信友(あきやま とらしげ/はるちか/のぶとも)は、戦国時代の武将。甲斐国武田氏家臣で譜代家老衆。武田信玄・武田勝頼期に活動が見られる。武田二十四将にも数えられる。
諱は『甲斐国志』による「信友」とされてきたが、近年は『戦国遺文』『山梨県史』の編纂事業に伴う文書調査によって武田家臣の実名の確定作業が行われ、確実な諱は「虎繁」であることが指摘されている[1]。
生涯
大永7年(1527年)、武田氏の同族で甲斐源氏の流れを汲む秋山信任の息子として生まれた。武田氏の当主が信虎から晴信へ交替した天文10年(1541年)に元服し、その偏諱を受けて晴近(はるちか)と名乗る。
『甲陽軍鑑』に拠れば、天文11年(1542年)の諏訪頼重攻めで初陣した。この頃は駒井高白斎の与力であったとも寄子であったとも言われる。
天文16年(1547年)の品の伊奈郡福与城攻めで一番乗りの戦功を挙げた上、敵将の藤沢頼親を捕縛するという大手柄により、騎馬50騎の侍大将に任じられたという。さらに木曽福島城攻めで戦功を挙げたため、伊奈郡代に抜擢され、相備えと合わせ250騎持の大将となったという。
以後も各地を転戦し、高遠城、飯田城、大島城の城代を務め、信濃伊奈方面の守備を任された。『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄10年(1567年)、信玄が織田信長と同盟を結ぼうとしたとき、多くの重臣が反対する中でひとりだけ信長と同盟を結ぶ利を説き、諸将を同意させたという。
『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄11年(1568年)には織田信長の嫡男・織田信忠と信玄の4女・松姫との婚約成立に伴い、岐阜へ名代として赴いている。このとき、信長は虎繁を手厚く歓待したと言われている。
『三河物語』によると、元亀4年(1573年)暮れ、東美濃に攻め入り岩村城を陥落させ、前城主・遠山景任の未亡人で信長の叔母に当たるおつやの方(岩村殿)を正室として迎えたとされるが、文書上からは確認されない。また岩村城に在城していた信長の5男・御坊丸(後の織田勝長)を保護して甲斐に送っている。その後、織田軍の攻撃により、生け捕りにされて討たれたと、長篠合戦以前のこととして掲載されている。
ただし、『甲陽軍鑑』では信玄存命中の天正元年(元亀4年)3月15日に落城させたとしている。『三河物語』では信玄出兵の際に東美濃出兵の記述はあるが、秋山の名前はなく、岩村の記述もない。『信長公記』では信玄存命中に岩村の記述はなく、勝頼時代に岩村口に侵攻、明智の城落城の記事がある。
このように、秋山虎繁の東美濃侵攻と岩村城攻防戦において、各書において記述が異なる。
元亀4年(1573年)の信玄の死後は勝頼に仕え、天正2年(1574年)に勝頼が東美濃に攻め入る際にはこれに協力し、信玄時代と変わらず、武田氏の東美濃方面(対織田氏)の最前線を戦っていた。しかし天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田軍が敗れるなど、武田方が劣勢になるに従い、岩村城は徐々に孤立する。織田信忠の軍が数度来襲してきたが、なお辛うじて持ちこたえていた。
『信長公記』によると、天正3年(1575年)11月、織田信長は嫡男の信忠に命じ、大軍勢を率いて岩村城を包囲する。救援の見込みが無いと判断した虎繁は和議を申し出て開城するが、大島・座光寺と3人で礼を述べに行ったところ捕らえられ(信長の命による)、長良川で磔に処された[2]。享年49。
信長はよほど(実の叔母による、信長の子供・織田勝長まで巻き込んだ)岩村城の無血開城・武田方への移籍が腹に据えかねていたらしく、岩村城の将兵は攻撃と焼き討ちで全滅した。
子孫
譜代大名水野氏に仕えた山形秋山家は、同家に伝わる宝永6年(1704年)の先祖書や『甲斐国志』に拠れば秋山伯耆守(虎繁)の子孫を称し、伯耆守の子民部右衛門(『国志』では式部右衛門)の孫秋山平太夫が水野家に仕えたとしている。
脚注
関連作品
- 小説
- 鬼丸 智彦『城将―武田の忠臣・秋山信友の生涯』山梨日日新聞社出版部 (2005年)
- テレビドラマ
参考文献
- 黒田基樹「秋山伯耆守虎繁について」 『戦国遺文月報』武田氏編第2巻、2002年
- 平山優「秋山虎繁」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年