コンテンツにスキップ

禧嬪張氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。VolkovBot (会話 | 投稿記録) による 2012年5月24日 (木) 22:29個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.2) (ロボットによる 追加: ro:Jang Hui Bin)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

禧嬪張氏 (張禧嬪)
各種表記
ハングル 희빈 장씨/장 희빈
漢字 禧嬪張氏/張禧嬪
発音 ヒビンチャンシ/チャンヒビン
日本語読み: きひん ちょうし/ちょう きひん
2000年式 Jang Hui Bin
テンプレートを表示

禧嬪張氏(きひん ちょうし、ヒビン チャンシ、1659年 - 1701年)は、李氏朝鮮の第19代国王粛宗の嬪(朝鮮王の側室の最上位)。第20代国王景宗の生母。張禧嬪(ちょう きひん/チャン ヒビン)とも呼ばれる。実名は玉貞(オクチョン)。本貫は仁同。諡号は「大嬪宮玉山府大嬪」。

人物

張氏(本項目では、「禧嬪(ヒビン)」は身分の称号であるため「張禧嬪(チャン・ヒビン)」ではなく「張氏」と記す)は中人(仁同張氏)の出身で仁祖の妃で粛宗の曾祖母に当たる荘烈大王大妃女官として宮中に入った。

当時の朝鮮では西人派と南人派の党派争いが展開されており、西人派が仁顕王后閔氏を後ろ盾に政権を握っていた。しかし仁顕王后は王妃に立てられてから6年を経ても子供に恵まれなかった。そこに目をつけた荘烈大王大妃を始めとする南人派は1687年(粛宗12年)に「美貌に秀でた」[1]張氏を後宮に送りこんだ。

張氏は「淑媛(スグォン)」に立てられ、さらに「昭儀(ソイ)」へと昇進し、1688年には王子李昀(後の景宗)を生む。1689年(粛宗15年)にはその功労によって「嬪(ピン)」に昇進し「禧嬪(ヒビン)」と号され、李昀は王世子に立てられた。さらに仁顕王后は廃され、張氏が王妃に冊立された(己巳換局)。この朝鮮史上唯一人の中人出身の王妃の冊立によって西人派の専横に終止符が打たれたが、替って南人派が権力を握ることになった。

一方、西人派では金春澤を中心に仁顕王后の復位運動(「閔氏重定運動」)が展開された。南人派の権力がかつての西人派のように増長することを危惧した粛宗が、仁顕王后を妃に復位することで張氏を後ろ盾にする南人派を牽制しようと企んだことにより、1694年(粛宗20年)には張氏は王妃から「嬪」の位に格下げされ仁顕王后が復位した(甲戌換局)。

1701年(粛宗27年)に仁顕王后が病没すると、西人派は王妃の死は張氏が巫女を使って呪詛したためだと誣告した。その結果、張氏は粛宗から死を賜った(賜死)。

評価

俗に燕山君の嬪の張緑水中宗の王妃文定王后に仕えた鄭蘭貞とともに「朝鮮三大悪女」、「朝鮮三大妖女」と呼ばれる。(尚、「三大悪女」の候補には他に、成宗の時代に王家に連なる名門に嫁しながら多くの男と関係を持った於乙于同、光海君の時代に暗躍した金介屎(金尚宮)、李朝末期の明成皇后(閔妃)等もあり、これらを合わせて「四代妖女」「五大妖女」等と呼ぶ説もある。)

しかし、熾烈を極めた宮廷の権力争いの中、中人という決して高くない身分から王妃になった彼女の生涯は「劇的」「悲劇的」などと関心をもたれ、現在の韓国では、しばしば文学や映画、テレビドラマの題材に取り上げられる。

禧嬪張氏を演じた俳優

脚注

  1. ^ 『朝鮮王実記』の記述。