孝懿王后
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| 孝懿王后 金氏 효의왕후 김씨 |
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|---|---|
| 在位 | 1776年4月17日 - 1800年8月18日 |
| 出生 | 1753年 |
| 死去 | 1821年 |
| 埋葬 | 1821年 |
| 配偶者 | 正祖 |
| 子女 | 純祖 (養子) |
| 父親 | 金時默 |
| 母親 | 唐城府夫人洪氏 |
| 孝懿王后 金氏 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 효의왕후 김씨 |
| 漢字: | 孝懿王后 金氏 |
| 発音: | ヒョウィワンフ キムシ |
| 日本語読み: | こういおうこう きんし |
| ローマ字: | Queen Hyoui |
孝懿王后 金氏(こういおうこう きんし、ヒョウィワンフ キムシ、1753年 - 1821年)は、李氏朝鮮第22代国王である正祖の正室。本貫は清風金氏で、諡号・尊号は莊徽睿敬慈粹孝懿王后である[2]。
目次 |
生涯 [編集]
淸原府院君金時默と、その妻唐城府夫人洪氏の娘として生まれる。父金時默は顕宗妃明聖王后金氏と親戚(彼の祖父金道濟が明聖王后金氏の甥にあたる)である。清風金氏より世孫嬪(王の跡継ぎにあたる孫の正室)をとの英祖の意向により李祘の正室に選ばれ、離宮に入宮したが、天然痘を患ったため回復を待った後、英祖38(1762)年2月、10歳の時李祘と結婚して世孫嬪に冊封された。金氏の従姉妹は李祘の実母恵慶宮洪氏の弟と結婚し、王室と二重三重の姻戚関係を持つこととなった。
1776年、夫李祘が即位して正祖となったことに伴い王后に冊封された。夫との間に子がなかったため、後宮のひとり綏嬪朴氏が産んだ男子(後の純祖)を養子とした。1800年に正祖が崩御した後は王大妃となった。
生前の金氏には尊号を与える話が多くあったが、これらを全て拒絶していた。1821年、69歳で薨去した後、水原(現華城市)の健陵に埋葬された。また尊号として「睿敬慈粹孝懿王后」が追贈されたが、後に「莊徽」も追贈されて尊号は「莊徽睿敬慈粹孝懿王后」となった。1889年には正祖が大韓帝国より正祖宣皇帝を追尊されたことにともない、宣皇后と追尊された[3]。
人物 [編集]
知性では姑の恵慶宮洪氏をも凌ぐと言われ、宮中で感心されていたという[1]。また孝心が篤く、義祖母にあたる貞純王后や姑の恵慶宮洪氏によく仕えた。義理の妹にあたる淸衍郡主や淸璿郡主とも仲がよく、淸璿郡主の死後はその子女の面倒も見た[1]。
家族 [編集]
- 曽祖父: 金道濟(明聖王后金氏の甥、淸原府院君)
- 祖父: 金聖集
- 祖父: 金聖應(金時默の実父)
- 父: 淸原府院君金時默
- 母: 唐城府夫人洪氏
- 兄: 金基大
- 兄: 金基種
- 従姉妹: 金氏(洪落倫夫人)
- 従姉妹の夫: 洪落倫(恵慶宮洪氏弟)
- 夫: 正祖
- 息子: 純祖(養子)
脚注 [編集]
- ^ a b c 효의왕후(孝懿王后) (朝鮮語) people.aks.ac.kr 2011.10.29 22:54 (UTC) 閲覧
- ^ 「遷陵碑文。 正宗文成武烈聖仁莊孝大王、崇禎紀元後一百二十五年壬申九月二十二日誕生。 己卯冊封王世孫、乙未聽政、丙申卽位、庚申六月二十八日昇遐、十一月初六日、葬于華城顯隆園東第二岡亥坐之原。 在位二十四年、壽四十九、辛巳九月十三日、遷奉于園之右麓子坐之原。 妃睿敬慈粹孝懿王后金氏、崇禎紀元後一百二十六年癸酉十二月十三日誕生、壬午冊封世孫嬪、丙申冊封王妃、庚申今上嗣位、尊爲王大妃。辛巳三月初九日昇遐、九月十三日、祔葬于健陵而同封。壽六十九。」(南公轍、「正祖大王遷陵碑文」朝鮮王朝実録 影印本第47本318)]
- ^ 「敢不從周家配天追尊之禮、以顯揚我列朝欽若昊穹之誠、仰答上帝眷顧之命、以示藐末無與之意?迺於今陰曆十一月十七日、率群臣躬詣太室、奉冊寶崇尊太祖大王爲太祖至仁啓運應天肇統廣勳永命聖文神武正義光德高皇帝、承仁順聖神懿王后爲高皇后、順元顯敬神德王后爲高皇后、追尊高祖考莊宗大王爲莊祖神文桓武莊獻廣孝懿皇帝、高祖妣獻敬王后爲懿皇后、曾祖考正宗大王爲正祖敬天明道洪德顯謨文成武烈聖仁莊孝宣皇帝, 曾祖妣莊徽睿敬慈粹孝懿王后爲宣皇后、…」(「축하를 받고 대사령을 반포하다」 朝鮮王朝実録 第43本39冊95枚A)
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