祥興帝
祥興帝 趙昺 | |
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南宋 | |
第9皇帝 | |
王朝 | 南宋 |
在位期間 | 1278年5月10日 - 1279年3月19日 |
姓・諱 | 趙昺 |
諡号 | 無 |
廟号 | 無 |
生年 | 1271年 |
没年 | 1279年3月19日 |
父 | 度宗(第3子) |
年号 | 祥興:1278年 - 1279年 |
祥興帝(しょうこうてい)は、南宋最後の第9代皇帝(在位:1278年5月10日 - 1279年3月19日)。姓は趙、諱は昺(へい)。廟号、諡号を持たないために、在位中の元号から祥興帝と呼ばれる。また、即位以前に封じられた王号で衛王(えいおう)と呼ばれることも多い。他に少帝、幼主、帝昺と称される場合もある。元代に編まれた『宋史』では永国公として、恭帝(瀛国公)、端宗(建国公)と共に本紀の最後の巻(第四十七)にまとめられている。度宗の子で、端宗の異母弟、また恭帝とは同年生まれの異母兄弟である。
1275年(徳祐2年)に南宋の都城である臨安が陥落すると、恭帝と謝太后は元軍に囚われた。恭帝の異母兄である趙昰(端宗)は楊亮節、陸秀夫、張世傑、陳宜中、文天祥などの護衛の下福建に逃れて即位し、ともに逃れた趙昺は衛王に封じられた。1278年(景炎3年)、端宗が病死すると、陸秀夫により碣州(現在の香港大嶼山、一説には広州市)にて趙昺が皇帝に擁立され、祥興と改元し、元軍を避けて崖山へと逃れた。
1279年、元の張弘范による崖山攻撃が開始されると、宋軍水師は張世傑の指揮の下に抵抗を続け、崖山の戦いと称される海戦が行われた。この戦いで宋軍は壊滅、陸秀夫は8歳の趙昺を抱いて入水し、ここに南宋の残存勢力は完全に滅亡した。