益田克徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ますだ かつのり
益田 克徳
生誕 1852年1月25日
佐渡国相川
死没 (1903-04-08) 1903年4月8日(51歳没)
出身校 慶應義塾
職業 検事実業家
テンプレートを表示

益田 克徳(ますだ かつのり/こくとく、1852年1月25日嘉永5年1月5日) - 1903年明治36年)4月8日)は、幕末期の幕臣で明治期の官吏実業家政治家東京海上保険創立者。幼名は荘作。号は無為庵、非黙。

経歴[編集]

代々土着与力をもって徳川に仕えた佐渡奉行所の役人・益田鷹之助の次男で、益田孝の弟。佐渡生まれ。

1854年安政元年)に父が箱館奉行所へ異動となったのに伴って、1855年(安政2年)江戸の親戚の家に出て、1858年(安政5年)に箱館に移る。1859年(安政6年)に父が外国方支配目付役に異動となったため江戸に戻る。慶応年間、英漢学を修め海軍修業生となり榎本武揚榎本軍に属する。箱館で捕らえられ、江戸に護送され禁固100日に処される。

明治維新後、1869年(明治2年)に高松藩に預けられ、慶應義塾に入り福澤諭吉に学ぶ。卒業後に高松藩の教育掛となる。明治4年(1871年)に山田顕義と欧米を視察し、司法省に出仕して検事となる。明治7年(1874年)に前島密と共に海上保険例を作成する。

その後、民間に下り、沼間守一嚶鳴社に入って自由民権運動に参加する。1879年(明治12年)東京海上保険会社勤務となり支配人となる。東京米穀取引所王子製紙明治生命石川島造船所東京帽子の取締役を歴任する。

1889年東京市会議員選挙に下谷区から立候補して当選した[1]

「克徳」の読み[編集]

経済学者の鈴木邦夫は、白崎秀雄が著書『鈍翁・益田孝』のなかで、「『益田克徳』の読みは『こくとく』が正しく、『かつのり』とは読まない」と述べていることを挙げたうえで、この説が流布してしまっているが、実際には「こくとく」は通称で、正式の読みは「かつのり」であるとする。鈴木はその例証として、The Japan Directoryの1896・1897年版に掲載された東京海上保険(支配人は益田克徳)の英文広告にKatsunori Masudaと表記されていることを挙げている[2]

『益田克徳翁伝』によれば、家族の者は"こくとく"と呼んでいたという[3]

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 制限選挙期における東京市会議員総選挙の結果について(櫻井良樹)
  2. ^ 鈴木邦夫「鈍翁コレクションのアルケオロジー」『鈍翁の眼 益田鈍翁の美の世界』(展覧会図録、五島美術館、1998)、p.144
  3. ^ 同書p.347
  4. ^ 益田克徳 - 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
  5. ^ "小田柿捨次郎". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2023年2月12日閲覧
  6. ^ 小田柿捨次郎 - 『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  7. ^ 益田克徳 - 『人事興信録』初版(1903年4月)
  8. ^ 山口勝治『三井物産技師平野勇造小伝―明治の実業家たちの肖像とともに―』西田書店、2011年、p.79(本書では名前を「仲」とする)
  9. ^ 黒岩涙香『弊風一班 蓄妾の実例』〈現代教養文庫社会思想社、1992年、p.146

参考文献[編集]