王立救命艇協会

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王立救命艇協会(おうりつきゅうめいていきょうかい、: Royal National Lifeboat Institution、略号:RNLI)は、イギリス及びアイルランド周辺の沿岸や海における救命活動を行なう、イギリスとアイルランドのボランティア組織である。この組織は、1824年国立難破船救命協会(National Institution for the Preservation of Life from Shipwreck)として創設され、1854年に今の名前に変更された。

イギリスでの活動は完全に、会員費、一般の人からのボランティアによる寄付や遺産により成り立っている。アイルランド政府はアイルランド海域におけるRNLIの活動を支援するために資金を出資しているが、組織に対して直接の影響力を行使していない。RNLIの本部はプールドルセットに存在し、2004年に新しい訓練学校がエリザベス2世女王によって開かれた。

創設者・ウィリアム・ヒラリー卿

ウィリアム・ヒラリー(en:William Hillary)卿は、1808年マン島に住むようになった。彼はたくさんの船がマン海岸の周囲で難破するのを見て、アイルランド海が危ないと言うことに気が付いた。そこで、彼は訓練された人員により運営される国立救命艇サービスの計画を考えた。最初のうち海軍本部からほとんど返事を得ることができなかった。しかし、ロンドンの社交界の慈善的なメンバーに訴えることにより、この計画は強く採用されることになり、1824年に難破による人命救助の国立協会(National Institution for the Preservation of Life from Shipwreck)が設立された。30年後に現在の組織名である王立救命艇協会に変更され、最初の救命艇は、ウィリアム卿の功績を認めダグラスに配置されることになった。1830年60歳の時、ウィリアム卿は、ダグラス港の入り口にあるコニスター岩に座礁したセント・ジョージ号の救出に参加した。彼は救命艇を指揮し、他の救命艇の船員と共に海に放り出されたりしたが、最終的には死亡者を出さず、セント・ジョージ号の全員を救出することができた。

ウィリアム卿がコニスター岩の上にリヒュージ塔(The Tower of Refuge)を建てる計画の準備を提案したのがこの事件であった。この計画は1832年に完了し、今日ではダグラス港の入り口に立っている[1][2]

RNLIの任務

RNLIが設立されてから、救命艇は2006年11月現在で13万7千人の命を救った[3]

RNLIは沿岸用として5種類の救命艇を運用してきた。20-40キロノット(37-74 km/h)出る空気注入型のボート(RIB)、最大船速が16-25キロノット(30-46 km/h)でる6種類の全天候型モータ式救命艇である。この組織は、233の救命艇基地にある332台の救命艇を運用している。また、2002年より4台のホバークラフトを運用しており、これまでのボートで到達できない泥地や川の河口での救出を可能とした。救命艇の乗員はほとんどがボランティアで、300人の女性を含む4600人の船の乗員は、発煙弾やポケベルにより警報を受け、警報時には救命艇基地に待機する。

イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー州にあるスパーン岬にあるハンバー救命艇基地は24時間人員が待機している英国内の救命艇基地2つのうち1つである(もう一つは、ロンドンテームズ川にあるワーテルロー埠頭にある)。職員は、悪天候の際に本土から遮断されるスパーン岬に住んでいる。他のスパーン岬に住んでいる人々は隣接するイギリスの港で救命艇の乗員たちと一緒に365日24時間船舶通航業務を行っている。

RNLIはイングランド南西の63の海岸でのライフガード組織を運用しており、400人以上のライフガードを雇っている。

英国では、遭難中もしくは、トラブルに遭遇したと報告した船は、沿岸警備隊中波無線(2182kHz)や、VHF無線(チャネル16)や、電話番号999や112で連絡しないといけない。アイルランド共和国では、アイルランドの沿岸警備隊や112もしくは999への電話が必要である。沿岸警備隊は海上での救出の調整を行い、RNLIもしくは、他の救命艇、もしくは地上の救助隊員や救助ヘリコプターへの連絡を行う。空・海の救出ヘリコプターは英国空軍や、英国海軍や、英国海兵隊、沿岸警備隊、あるいは米国空軍アイルランド空軍から提供される。

運用中の救命艇の種類

RNLIの救命艇

RNLIには2種類の救命艇が存在する。

  • 全天候型ボート - ひどい天候の中でも高速で長距離を移動することができる大型のボート
  • 沿岸救命艇 - 全天候型ボートより海岸に近い領域で運用する小型のボートで浅い海域や崖に近い箇所で運用が可能なボート

最大の救出任務

RNLIの歴史で最大の救出は、1907年3月17日に行なわれた。これは、1万2千トンのライナーSSスービックコーンウォールリザードポイント近くのミーンヒーレリーフに座礁した時のことである。強風と濃い霧のなか、RNLIの救命艇ボランティアは70人の赤ん坊を含む456名の乗客を救出した。リザード(Lizard)、キャドグウィズ(Cadgwith)、コヴェラック(Coverack)、ポースレーヴェン(Porthleven)の船員は乗客を救出するために16時間の間繰り返し救出を行なった。RNLI銀勲章が後に贈られ、2つがスービックの船員に贈られた[4]

救命艇の損失

ドルセットプール、プール海岸のRNLI警備艇

創設より、救命艇の任務によってたくさんの関係者が殉職している。

  • 1871年 - 1871年のグレートゲールでブリリングトンの救命艇RNLBハービンガー号が失われ、6人の命が失われた。
  • 1880年 - ウェルズ・ネクスト・ザ・シーの救命艇エリザ・アダムスは荒れ狂う海の中オーシャン・クイーン号の救出に向かった。救命艇は転覆し、13人中11名の乗組員が溺死した。(英文記事:ウェルズ救命艇の惨劇
  • 1886年 - リザムのセント・アン号とサウスポート号の救命艇は、嵐の中トラブルに遭遇したドイツの帆船メキシコ号の支援に向かった。セント・アン号とサウスポート号は失われ27人の乗組員が失われた。(英文記事:サウスポート号とセント・アン号の救命艇の惨劇
  • 1899年 - RNLIで最も伝説的な偉業があった。リンマウスの救命艇ルイザ号は艦船救助のため10時間以上かけてポーロックへ陸路でエクスムーアを通って運ばれた。到着した時、ルイザ号は即座に浸水し、タグボートが到着した時には、夜明けまで傷ついたまま浮かんでいた。
  • 1901年 - 荒天によりカイスター・オン・シーの救命艇ボーシャン号が転覆しの9名の命が失われた。なぜ救出を断念しなかったかを救命艇の船長に聞いたところ、「カイスターの乗員は引き返すなんてことはしない。」と答えた。
  • 1928年 - ライ海岸の救命艇の惨劇が発生。メリースタンフォード号が転覆し、17名の命が失われた。
  • 1947年 - 1947年4月23日南ウェールズ沖でSSサンタンパ号の乗員の救出を試みようとしてマンブルス救命艇の8人が死亡。合計45人の命が失われた。
  • 1959年 - ノースカー灯台船を救出に向かったブローティ・フェリィ救命艇の8名が死亡。
  • 1962年 - 11月17日に漁船エコノミー号の5人の乗員を救った後、シーハム救命艇は帰還途中に転覆。5人の救命艇の乗員全員が死亡し、エコノミー号の1人のみ生還した。
  • 1981年 - 貨物船ユニオンスター号救助に向かったペンレーの救命艇ソロモン・ブラウン号が失われ、8人の乗組員全員が失われた。この事故で合計16人の命が失われ、生存者はなく、8体の遺体のみ回収した。(英文記事:ペンレー救命艇の惨劇

名誉ある人

救命艇の乗組員はしばしばその勇敢さをたたえて勲章が贈与される。最も注目すべき人物の1人に、クローナーの救命艇の乗組員で、RNLI金章を3回贈与されたヘンリー・ブロッグがいる。彼は、ジョージ・クロスとブリティッシュエンパイア・メダル(British Empire Medal)も受章した。彼は、「全ての救命艇の乗員で最も偉大な人物」として知られている。

司令部

RNLIの司令部はドルセットのプール海岸のホールズ湾にある。ここにはRNLIの司令部と、救命艇のメンテナンスと修理施設、救命艇支援センター、国立訓練センター、救命艇大学がある。 支援センターと大学は2004年エリザベス2世女王により開かれた[5]。スペシャリストの訓練施設は、波や転覆の訓練ができるプール、火災訓練シミュレータ、橋梁訓練シミュレータ、生命工学の研究会がある[6]

関連項目

ギャラリー

参考文献

外部リンク