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王殺し

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ポーランドプシェミスウ2世暗殺

王殺し(おうごろし、: regicide)とは、政治的・宗教的理由によってを殺害すること。英語、フランス語などの "regicide" はラテン語の「王(REX)」と「殺害(CIDE)」の合成語が由来。

古代においては宗教的意味をもって王を殺害する習慣があったとする説がある。これは、王が本来人間の身でありながら、宇宙の秩序を司る存在として君臨していたことに由来し、そのための能力を失った王は殺害して新たな王を擁立して秩序を回復させるという点にあった。ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』の中でローマの逃亡奴隷の祭司長である「森の王」の殺害を取り上げている。

市民革命の時代には、「王殺し」が革命派によって旧体制との決別の意味で用いられた。清教徒革命ではチャールズ1世が斬首され、逆に王政復古後には革命の指導者であったオリバー・クロムウェルの遺体が晒し者にされた。これに対してフランスのブルボン朝ではアンリ4世暗殺犯やルイ15世暗殺未遂犯に対して残虐な方法での処刑を行って見せしめとした。それでも、フランス革命によってルイ16世の処刑は避けられなかった。そこで、ナポレオン1世は自己の制定した刑法に弑逆罪 (Le régicide) を設けて死刑を唯一の罰則とした。フランス復古王政はこれを逆手にとってルイ16世処刑の投票に賛成した国民公会議員を「王殺し」と認定した。アメリカ独立戦争の際、国王であるジョージ3世は遥か遠いロンドンにいたため、代わりに王を模った絵などを焼いたと言われている。

市民革命後も君主制を採用した国民国家の中には、王殺しは国家に打撃を与える重大な犯罪として大逆罪などの形で法制化している例がある。

参考文献