玉縄城

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玉縄城
神奈川県
太鼓郭下の堀切
太鼓郭下の堀切
別名 甘縄城
城郭構造 平山城
天守構造 無し(諏訪壇をそれに代わる物とする考えも有る)
築城主 北条早雲
築城年 1513年(永正10年)?
主な改修者 後北条氏
主な城主 北条氏時北条綱成北条氏繁北条氏勝本多正信
廃城年 1703年(元禄16年)?
遺構 堀切、土塁、大土塁、郭、帯郭、虎口跡
指定文化財 未指定
位置 北緯35度21分12.4秒 東経139度30分54秒 / 北緯35.353444度 東経139.51500度 / 35.353444; 139.51500 (玉縄城)座標: 北緯35度21分12.4秒 東経139度30分54秒 / 北緯35.353444度 東経139.51500度 / 35.353444; 139.51500 (玉縄城)
地図
玉縄城の位置(神奈川県内)
玉縄城
玉縄城
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玉縄城(たまなわじょう)は相模国鎌倉郡玉縄村、現在の神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻にあった日本の城平山城)。甘縄城ともいう。最寄の鉄道駅はJR大船駅

城の歴史

北条氏時代

永正10年(1513年北条早雲(伊勢盛時)により築かれたとされているが、それ以前から砦か小城があった可能性も考えられてる。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出すことが可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となった。さらに鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面があった。

大森氏小田原城を奪い、西相模に進出した北条早雲は東相模の相模三浦氏と争うが、長期戦となった。この際、同氏の主筋である武蔵の扇谷上杉家当主上杉朝興新井城に籠る三浦義同の援軍として挟撃してくることへの備えが必要とされ、三浦半島の付け根に当たるこの地に玉縄城が築かれた。三浦氏滅亡後は安房里見氏に対する押さえ、また小田原城の守りとしての役割も担った。

北条氏時代には、一門の重要人物が城主として置かれた。初代城主氏時は早雲の実子であるが享禄4年(1531年)に急逝、そのため、氏綱の実子である2代城主為昌が玉縄城に入ったがまだ少年であり、扇谷上杉家との戦いや里見氏の攻撃で焼失した鶴岡八幡宮の再建指揮も兼ねて父である氏綱が小田原城と玉縄城を往復して政務をみた[1]。その後、氏綱は小田原城に戻ったものの、為昌は天文11年(1542年)に急逝する。このため、氏綱の娘婿で長く城代として為昌を補佐してきた北条綱成が「為昌の養子」という名目で3代城主となった(ただし、実際の年齢は綱成の方が上である)。以後、綱成の子氏繁、氏繁の嫡男氏舜、その弟氏勝と4代にわたって城主の地位が継承された[2]

堅城として知られ、大永6年(1526年)11月26日に足利義明に呼応して鎌倉へ攻め入った里見義豊里見実尭を大将とする説もある)の軍勢を撃退したときをはじめ、度々里見氏の攻撃を退けた。また上杉謙信武田信玄が相模へ乱入した際も攻略をあきらめたほどである(素通りしたとの見方もある)。

豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原征伐においては、玉縄城主北条氏勝山中城の守備に就いていたが落城が迫り責任をとり自害を考えた、しかし弟の北条直重らに諌められ思い留まり、わずかな兵(毛利家が残した文書には700騎とある)を伴い落ち延び、本拠地玉縄城に戻り籠城した(小田原城には入らず)、しかしこれによりかえって小田原城の北条氏政の疑心を招いた。そして玉縄城は徳川家康軍に包囲された、徳川軍と氏勝が信頼を寄せていた、龍寶寺住職からの説得により4月21日に、降伏・開城。開城後は徳川氏や古田重然瀬田正忠らが守備した。以降氏勝は、下総地方の北条方の城の無血開城に尽力し、戦後は徳川家の家臣となり、下総岩富城1万石の領主となり、岩富藩を立藩した。

徳川氏時代

徳川政権下においても玉縄城は重要視され、家康側近の本多正信の居城となり、その後は一門の長沢松平氏の居城となった。元禄16年(1703年)2月10日、長沢松平氏が上総国大多喜藩転封となったのを機に玉縄城も廃城となった。

遺構

陣屋坂から堀切を見る
諏訪壇下の土塁もしくは土橋
太鼓郭の現状
諏訪壇とけまり場間の堀切

周囲の砦を含め、かつては広大な城域であった。1955年昭和30年)頃までは比較的多くの遺構が残っていたようであるが、1963年(昭和38年)に女子校の清泉女学院中学高等学校が城跡に移転して以降、その多くが破却された。近年玉縄城の保存活動が行われ、史跡の指定を目指しているものの、住宅建設の折りに遺構が出てきても保存されるには至っていない。近年まで陣屋坂上の郭などに土塁が残っていたが、現在は宅地化により痕跡程度の土の高まりが見られる程にしか残っていない。また竪堀が複数残っていたが、トンネル横のマンション建設により破壊された。破壊を免れた遺構として、

  • 城の最高部であったといわれる土壇「諏訪壇」がある。諏訪壇下には土塁(もしくは土橋)が残り、更にその下に三角形の小郭が残る。諏訪壇とけまり場間に堀切残る。
  • 七曲坂を上り切った所は虎口跡であり、痕跡が残る。
  • 主郭(現在の学校)の切岸の辺りには土塁の痕跡とみられる低い土盛りが有る。
  • けまり場と呼ばれる郭には土塁が残り、けまり場とその先に有る、月見堂と言われる郭の間に堀切が残る、更に月見堂の郭の先に2条の小堀切が残るが、立ち入りは出来ない。
  • 太鼓櫓と呼ばれる郭が整備され、その真下にかつて通路としても使われた堀切が残る、更にその先にも堀切が有るが、立ち入りは出来ない(この堀切は陣屋坂からマンション越しに見て取れる)。
  • また、清泉女学院校門前に安置されている巨石は、玉縄城遺構の一部といわれる。
  • 立ち入りは出来ないが、城壁の役割を果たした、主郭外周の大土塁、帯郭が残る。
  • その他立ち入りは出来ないが、細尾根に岩を砕いた堀切、空堀と土塁と思われる物、小郭と思われる所も複数残る。

近年は宅地化が進み周囲に数多くのマンションが建築された。清泉女学院中学校・高等学校に隣接する住宅地に「早雲台」、周辺地域に「城山」「城廻」「関谷」「植木」等の地名を残し、辛うじて龍寶寺から玉縄城大手口へと至る七曲坂、久成寺(鎌倉市)から同じく大手口へ至る、ふわん坂・陣屋坂等が残っているが、それ以外に往時の状況を偲ぶことは困難である。女子校ということもあって学校警備は厳重であり、限られた時を除き、城跡の見学はできない。

その他に、玉縄城から近い玉縄城砦群として二伝寺砦跡が有り、郭跡、土塁と考えられる土盛り、堀切の痕跡が有る。他長尾砦跡が有る。長尾砦とされる辺りには小郭状の所も有るが、遺構かどうかの判断は難しい。またその上の台地は、耕作地となり改変もあり遺構は無いが、南部の古道上にそれらしき場所が残る。大船観音が建つ場所も物見を兼ねた砦が有った場所である。

歴代城主

後北条氏時代
北条氏時
北条為昌
北条綱成
北条氏繁
北条氏舜
北条氏勝
本多氏時代
本多正信
長沢松平氏時代
松平正綱
松平正信
松平正久

周辺の史跡

玉縄首塚。中央の五輪塔が首塚とされる。画面右手の案内板には里見氏側の大将を「里見義弘」としているが誤り
  • 龍寶寺-玉縄城の城主たちの供養塔がある(かつては背後の山にあったが、近年下のお寺に移された)。またこの寺の背後の山も、玉縄城の何らかの防衛を担った事が考えられ、かつて供養塔が有った所など数か所が削平されている(堀切状の所が有るが、明らかな改変が有るので、遺構ではない可能性が高いが、元からあった堀切を改変した可能性もある)。寺内には小さな資料館が有り、玉縄城に関する復元図、ジオラマや出土のかわらけ、石などが展示されている(有料)。
  • 玉縄城砦群-ニ伝寺砦、長尾砦
  • 玉縄首塚-甘縄首塚とも。1509年(大永6年)に起きた大永鎌倉合戦で里見氏との戦いで討ち取られた北条方の将を弔った塚で柏尾川沿いに建っている。毎年8月19日に「玉縄史跡まつり」と題し供養を兼ねた祭りが開催されている。塚の脇には首塚の成立過程を記した1968年昭和43年)建立の石碑が建っている。

後北条氏の主な城跡

脚注

  1. ^ 下山 2016
  2. ^ 佐藤 2006

参考文献

  • 佐藤博信 2006年「第8章 北条為昌と北条綱成」(原論文1986年)・「第9章 玉縄北条氏の研究」(原論文1975年)『中世東国の足利・北条氏の研究』岩田書院 ISBN 978-4872944266
  • 下山治久 2016年「北条氏綱とその文書」(初出:『三浦古文化』36号 1984年)『シリーズ・中世関東武士の研究 第二一巻 北条氏綱』黒田基樹戒光祥出版 ISBN 978-4-86403-200-1

関連項目

外部リンク