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狩野常信

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狩野 常信(かのう つねのぶ、寛永13年3月13日1636年4月18日) - 正徳3年1月27日1713年2月21日))は、江戸時代前期の江戸幕府に仕えた御用絵師。父は狩野尚信。幼名は三位、右近と称し、養朴・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎・寒雲子・潜屋などと号した。子に後を継いだ長男・周信、別に浜町狩野を興した次男・岑信、さらにそれを継いだ甫信がいる。

略伝

1650年慶安3年)父の尚信が没した後、15歳で狩野派(木挽町狩野家)を継いだ。同年剃髪、養朴と号し家光にお目見え、後に家綱の御用を勤めた。狩野探幽にも画を学び、古来より狩野元信狩野永徳・狩野探幽とともに四大家の一人とされ高く評価されてきたが、意外にも狩野派内での地位が上がるのは遅い。叔父・狩野安信に疎んじられたからだと言われる。その間に和歌に興じ、徳川光圀の愛顧を得、幕末に著された「古画備考」には多くの歌が収録されている。また、探幽同様に古画の学習に努め、後に「常信縮図」(60巻、東京国立博物館蔵)と呼ばれる膨大な古画鑑定控え、粉本・画稿を残した。そうした甲斐があってか、天和2年(1682年)二十人扶持を拝領、宝永元年(1704年)に法眼、同6年(1709年)には法印に叙し、翌年には二百石を加増された。

狩野派、特に木挽町狩野家の繁栄の基礎を固めたと評価される一方、晩年の画風は穏やかで繊細なものに変わり、以降の狩野派が弱体化し絵の魅力が失われる原因となった。

代表作

屏風
絵巻物・画帖
掛軸
  • 唐人物図 (高知・土佐山内家宝物資料館)五幅対
  • 柳沢吉保像 (山梨・一蓮寺常光寺、個人蔵) 絹本著色 元禄15年(1702年) 賛は翌年吉保自身による
常信は当時老中として権勢を振るっていた堀田正俊と親しくしていたが、正俊が稲葉正休に暗殺されると、常信は最大の庇護者を失う。また、かつて常信が正俊と魚捕りに同行していたことが、生類憐れみの令を推進していた徳川綱吉の耳に入って常信に絵を依頼しなくなり、周囲も綱吉を憚って常信に仕事の依頼が頼まなくなってしまう。そんな時、柳沢吉保が常信を庇い執り成してくれたことで、綱吉は常信に絵を注文し、法眼の位を与えられるまでになった、という逸話が残る[1]

関連項目

脚注

  1. ^ 『永慶寺殿公御実録』。福留真紀 『将軍側近 柳沢吉保 いかにして悪名は作られたか』7-11頁、 新潮社新潮新書419〉、2011年 ISBN 978-4-10-610419-0

参考資料