狩野尚信

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三十六歌仙額』のうち「平兼盛金刀比羅宮蔵、探幽・安信との共作。書は滋野井季吉。慶安元年(1646年松平頼重が奉納。

狩野 尚信(かのう なおのぶ、慶長12年10月6日1607年11月25日) - 慶安3年4月7日1650年5月7日))は江戸時代初期の狩野派絵師狩野孝信の次男で、狩野探幽の弟、狩野安信の兄。子に狩野常信がいる。通称は主馬、自適斎と号した。

略歴

慶長12年(1607年)京都に生まれる。元和元年(1623年徳川家光上洛の際、17歳でお目見えし、家光から絵事を申しつけられた。元和4年(1618年)父・孝信が亡くなると、5歳年長の探幽は既に別家したため、尚信が父の跡を継ぐことになる。

兄探幽に続き、寛永7年(1630年江戸に召され、竹川町に屋敷を拝領し、幕府の御用絵師となる。同族の狩野甚之丞の娘と婚姻し、息子・常信が生まれる。探幽の画風を素早く習得し、二条城聖衆来迎寺知恩院障壁画の制作では兄と共に参加し、その画業を補佐した。

私生活においては、ふらりと京都に旅行に出て小堀遠州を訪ねたり、実際は病死したと伝えられるが、失踪して中国に行こうとした、あるいは魚釣りに出かけて溺死したという逸話が作られるなど、飄々と生きた趣味の自由人といった人柄を伝えている。

弟子は多くなかったらしく、子の常信を除くと、林作之丞信春、狩野徳入信吉、平戸松浦藩御用絵師・片山尚景の3名のみが挙げられている(『古画備考』)。

作風

探幽の画風に多くを学びつつも、そこから一歩踏み出し、探幽以上に湿潤な墨調をもち、次男という自由な立場故か、余白や構図にも探幽を超える大胆さを垣間見せる作品が残っている。大和絵の白描技法を水墨画の人物描写に応用し、漢画の和様化に寄与した。近衛家熙は『槐記』のなかで、古今に超絶したものだと高く評価している。一方、金碧障壁画の着色作品は、対象を単純化しようとする傾向が見られ、探幽が金碧画の中にも和様化を目指したのに対し、尚信は装飾化へ向かおうとしたようである。ただし、尚信の代表作には障壁画以外に濃彩画が残っておらず、尚信は着色金碧画には余り興味を持たなかったようだ。

探幽の弟子・木村探元著の『三暁庵雑志』では、「探幽絵などとは違い、別て筆ずくなに書し画にて候」と評し、不出来な作品は破り捨てていたため寡作だったという。実際、現存する尚信の作品は多くはない。江戸時代には探幽と同じくらい人気があり、反面作品数は少ないため、しばしば贋作が作られるほどだった。

代表作

作品名 技法 形状・員数 所有者 年代 落款・印章 備考
知恩院障壁画 尚信の担当は、大方丈の上段の間「山水人物図」5面、中段の間「仙人図」5面、鶴の間「松鶴図」16面、松の間「松鶴図」14面、梅の間「梅雉子図」4面、仏の間「蓮華図」1面。小方丈の上段の間 「山水図」18面、雪中山水の間「雪中山水図」13面。当時、探幽は大徳寺本坊大方丈の制作に集中しており、尚信が知恩院障壁画の総指揮を執った。名古屋城障壁画と図様・構図共に類似する作品が多い。遺品の少ない尚信の作品をまとめて鑑賞できる点で希少である。
大原御幸・富士見西行図屏風 紙本淡彩 六曲一双 板橋区立美術館 朱文重郭方印「主馬」
西湖図屏風 紙本墨画淡彩 六曲一双 静岡県立美術館
山水花鳥図屏風 紙本墨画 六曲一双 根津美術館 落款「尚信」/主文長方印「狩野」・朱文重郭方印「主馬」・朱文鼎印(印文不明)
瀟湘八景図屏風 六曲一双 東京国立博物館
竜虎図屏風 紙本墨画 六曲一双 栃木県立美術館
花鳥図屏風 金地着彩 六曲一双 個人蔵
中国故事人物図屏風 紙本墨画淡彩 六曲一双 個人蔵
四季山水図屏風 紙本墨画淡彩 六曲一双 個人蔵
虎図 紙本墨画 六曲一隻 ウースター美術館 探幽筆「龍図」と対。
武州州学十二景図巻 江戸東京博物館
松図襖 紙本金地着色 襖4面 鍋島報效会
黒馬図絵馬 1面 春日神社篠山市黒岡)絵馬堂 1649年(慶安2年)奉納 篠山市指定文化財。篠山藩松平忠国明石藩転封した際に奉納した絵馬。その雄渾な姿から、黒馬が絵から抜けだし畑の豆を食い荒らしたという伝説を産んだ。
Winter Scene with Plum Trees and Pheasants, 紙本墨画淡彩 六曲一双 クリーブランド美術館
禁苑郭公図屏風 紙本墨画金泥 六曲一双 現在所在不明

参考資料