熊野三山検校
熊野三山検校(くまのさんざんけんぎょう)は、京都において熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統轄に当った役職で、現地を統括していた熊野別当の上に11世紀末に設置された。
概要
[編集]寛治4年(1090年)、熊野に参詣した白河院は、熊野詣の盛行に鑑みて、一地方霊山に過ぎなかった熊野三山を組織的に管理する必要を感じ、先達(せんだつ、道案内人)を務めた園城寺長吏の増誉[1](1032-1116)を新設の熊野三山検校に補任し、在地の支配者である熊野別当の上に置いた[2]。同時に熊野別当の長快を法橋に叙階したことにより、熊野三山は中央の僧綱制に連なることとなった[3]。
しかしながら、宗務は無論のこと、所領経営、治安維持、さらに神官・僧侶・山伏の管理といった統治実務にあたったのは熊野別当とそれを補佐する諸職であった[4]のに対し、熊野三山検校の本務は院の熊野詣に際して先達を務めることであったため、その性格は多分に実権よりも名誉や権威に重きがおかれた役職であった[2]が、熊野別当家の没落につれ、14世紀中頃以降、熊野に対する実権を掌握するようになっていった。
歴史
[編集]熊野三山検校のうち、初代の増誉から6代の覚実までは、大峯山や葛城山、熊野において修行を積んだ修験者として知られ、三井寺長吏(園城寺長吏)にも補任されている。しかも、初代の増誉、2代の行尊(1055-1135)は当代最高の「験者」と評され、3代の覚宗もまた鳥羽院の女院・待賢門院や女御・藤原得子(女院・美福門院)らの「験者」を務めた[5]ことで有名である。
なお、2代の行尊は峰入り作法としての順峰(じゅんぶ、熊野から大峰・吉野に抜けて行く行程選定)[6]を行い白河院・鳥羽院の熊野参詣に際してもたびたび先達を務めるなど後世の熊野参詣の基礎を作った高僧の1人として特に有名であるが、一方で家集としての『行尊大僧正集』を残した『金葉和歌集』・『新古今和歌集』などの勅撰和歌集の歌人としても世に知られている[7]。なお、鎌倉時代に編纂されたとみられる『寺門高僧記』「行尊伝」に行尊の「観音霊所三十三所巡礼記」が所載されているが、この巡礼記は西国33所巡礼のもっとも確かな初見史料として高く評価されている[8]。
なお、3代覚宗の在任中の保延3年(1137年)に、熊野からの山岳修行の担い手の1つである本宮長床衆の指導者として相泉坊相澄が初代の長床執行に補任され、その組織化が進められた[9]。次いで4代覚讃の在任中の永暦元年(1160年)に、後白河院が京都に新熊野社(いまくまのしゃ、「今熊野社」とも)を法住寺の御所に勧請し、治承4年(1173年)には覚讃を初代の新熊野検校に補任した。5代三山検校の実慶が4代新熊野検校職に就いた文治2年(1186年)以後、新熊野検校職は、三山検校の兼職とされ、三山検校および京都における熊野の拠点となった[10]。
しかし、7代の長厳は修験者ではあるが園城寺とは関係がないばかりか、真言宗系の仁和寺の出身であったためか、後鳥羽院の強い引立てを受け、那智山検校をへてから熊野三山検校に補任されている[10]。この人事は、現任の6代覚実を更迭させて、行なわれたものであった[11]。長厳は、後鳥羽院と密接な関係を持ち続け、13世紀初めの承久の乱にも院方として加わり、乱後、陸奥に配流された。長厳は、それまでの三山検校と異なって熊野三山に及ぼした影響が強かったためか、藤原頼資の参詣記の建保4年(1216年)7月5日条には、田辺別当家の快実と頼資が長厳について批判めいた談話をしたと記されている[12]。
熊野三山の一部が院方に加担して鎌倉幕府と戦った承久の乱後、8代検校として定豪が就任しているが、定豪は鶴岡八幡宮の別当であり[10]、鎌倉幕府が熊野の直接把握を図った形跡がうかがわれる[13]。
9代の良尊からは再び寺門派の修験者が代々この職に補任されるようになるが、依然としてその支配権は形式上のものにとどまっていた[14][15]。
しかし、承久の乱以後に熊野別当家が衰退し、熊野地方の諸勢力への統制力を失った[16]ことで、14世紀中頃以降の熊野三山の統治組織に大きな変化が生じ、三山検校が熊野の直接把握を試みるようになる[17]。例えば15代道昭は、那智山の社僧に対し、所領を安堵する文書2通を発しており、熊野を掌握する試みをおこなっている[18]。また、おおよそ16代覚助法親王ないしは20代道意以降にかけての時期には、足利将軍家との親近関係も手伝って、三山検校職が聖護院門跡の重代職となった[19]。足利尊氏は三山検校の意向を受けて在地で実務に当たる熊野三山奉行を新設することで、これを実質の面で後押しした。尊氏は、東山禅林寺の熊野若王子社を再興し、その別当寺院として新設した乗々院(じょうじょういん)の別当良海を三山奉行に補任した[20]だけでなく荘園の寄進[21]により財政面でも乗々院を支えた。
加えて、室町時代から戦国時代にかけて熊野山領の荘園の状況の変化は、熊野三山検校やその下におかれた三山奉行の熊野三山に対する影響力を増大させる方向に働いた。この時期、在地領主の支配が及ぶようになった結果、各荘園からの熊野への年貢は一部の上分米をおさめるのみになり、それも滞りがちとなった。熊野からの働きかけにより事態を解決したこともあるものの、多くは守護や在地土豪の仲介を求めており、熊野三山検校や三山奉行はしばしば仲介の依頼を幕府にとりつぐことがあり、これにより熊野への発言権は増していった[22]。このようにして、当初、名誉職に過ぎなかった熊野三山検校は、14世紀半ば以降の熊野別当家の退勢を背景に、足利将軍家権力の支持をもとに権威と実権を拡大させていった[23]のである。
以後、歴代の足利将軍は、乗々院の所領と権益を手厚く保護し、聖護院が14世紀末期から15世紀前半にかけて20代検校で聖護院門跡であった道意のもとで完全に三山検校を重代職化してから、乗々院は三山奉行を重代職とするだけでなく聖護院の筆頭院家の地位をも獲得した[24]。さらにこの時期、乗々院が熊野先達職を安堵するようになり16世紀前半までこの状態が続いた[25]が、16世紀後半の25代道澄の時代になると聖護院門跡が熊野先達職を安堵するとともに、年行事職を与えその地域の檀那の参詣案内や祈祷、さらに域内の山伏を支配する権限を与えるようになった[26]。こうして、15世紀前半~16世紀後半にかけて、聖護院門跡を中心に修験道教団本山派が成立した[27]のである。
なお、応仁の乱に際して聖護院と若王子社は兵火にかかって焼失したが、1545年(天文14年)および1564年(永禄7年)の令旨に見られるように、熊野三山検校職それ自体は本山派教団の勢力拡大と共に存続した[28]。
また、1575年(天正3年)に織田信長は山城国西院内の30石を寄進し、豊臣秀吉は1585年(天正13年)に同じく山城国岩倉内長谷の75石、1591年(天正19年)には山城国吉祥院内の8斗8升を寄進した。秀吉から寄進された長谷と吉祥院は江戸時代に入ってからも御朱印地として安堵された[28]。
熊野三山検校は明治元年(1868年)まで存続したが、最後の検校であった宮入道信仁親王が還俗し、明治3年(1870年)に北白川宮を創設して北白川宮智成親王を称したことをもって終焉を迎えた[29]。
脚注
[編集]- ^ 関口力は増誉の祖父である藤原隆家が、自身の大宰権帥就任祈願とその御礼のために2度の熊野参詣を行った際に当時の慣行として熊野側に相応の寄進を行ったと推定し、増誉はその恩恵により熊野修行が許され、その後も強い影響力を有したとしている(関口[2007: 71-89])。
- ^ a b 阪本[2005: 25]
- ^ 宮家[1992: 6]
- ^ 宮家[1992: 16]
- ^ 徳永[2002: 84]
- ^ この順峰に対して吉野・大峰から熊野に抜ける行程選定を逆峰(ぎゃくぶ)といい、近世以後はこの逆峰が主流となった。
- ^ 小山[2004: 106-107]。なお、行尊の『金葉和歌集』入撰歌として、後に『小倉百人一首』にも入った「もろともにあはれとも思へ山ざくら花よりほかに知る人もなし」の歌がよく知られている。
- ^ 清水[2008: 214]。もっともこの行尊の巡礼記では、現行の西国33所巡礼と違って巡礼の順序が異なり、大和の長谷寺が1番、山城の御室戸寺(三室戸寺)が33番の結願所になっている。
- ^ 阪本[2005: 49-50]
- ^ a b c 宮家[1992: 15-17]、阪本[2005: 26]
- ^ 宮地[1956]、徳永[2003: 120]
- ^ 阪本[2005: 26]
- ^ 宮家[1992: 22]
- ^ 阪本[2005: 27]
- ^ 高橋修は、三山検校は鎌倉時代のうちに地方霊山に高い支配権を確立し、それを拠点に地方の修験者の掌握を達成していたことを明らかにした(高橋[1991: 19-27])。この見解を踏まえ、長谷川賢二は、鎌倉時代後期の時点ですでに三山検校が末寺の院主や熊野先達を補任するシステムができていたことを説いている(長谷川[1992: 40-42]、[1994: 72-73])。こうした新研究により、熊野三山検校が形式的なものに過ぎなかったとする従来の学説は、再考を迫られている(阪本[2005: 11、64])。
- ^ 阪本[2005: 433-437]
- ^ 阪本[2005: 28]、宮家[2005: 265]
- ^ 宮家[1992: 265]、阪本[2005: 27-28]
- ^ 宮家[1992: 265-268]参照。これに対し、近藤祐介は、13世紀半ばに常住院良尊が補任して以降、基本的に常住院門跡が三山検校を相承したとする酒井彰子「中世園城寺の門跡と熊野三山検校職の相承-常住院から聖護院へ-」(『文化史学』48号、1992年)の説を支持して、14世紀末に大峰修行の儀礼化・体系化を進めた常住院門跡・熊野三山検校の良瑜が聖護院門跡の断絶にあたって自らの後継とする予定であった聖意を聖護院門跡に送り込むとともに熊野三山検校の地位を譲ったことによって熊野三山検校が常住院門跡の重代職から聖護院門跡の重代職に移行したとする。近藤[2017: 143-147, 162-164]
- ^ 宮家[1992: 268]
- ^ 宮家[1992: 121-122]
- ^ 宮家[1992: 126]
- ^ 宮家[1992: 265-268]。さらに長谷川[1989]を参照。
- ^ 宮家[1992: 269]
- ^ 宮家[1992: 293-294]
- ^ 宮家[1992: 294-298]参照。これに対し、近藤祐介は、25代の道澄の前任者である24代道増が天文年間(16世紀中頃)に将軍使節として各地を巡り年行事補任状を発給しつつ、在地山伏の直接掌握を進めたと説く(近藤[2010])。さらに、関口真規子もまた、天文18年(1547年)5月の「聖護院門跡道増修験法度」を挙げ、関東地方では特に熊野先達のみならず修験道全体に聖護院門跡の権威が及んだことを明らかにしている(関口[2008: 35、44])。
- ^ 宮家[1992: 298]
- ^ a b 宮家[1992: 269]
- ^ 国史大辞典編集委員会[1984: 873]
参考文献
[編集]- 国史大辞典編集委員会(編)、1984、『国史大辞典』第4巻、吉川弘文館 ISBN 4-642-00504-8
- 小山靖憲、2004、『世界遺産 吉野・高野・熊野をゆく』、朝日新聞社 ISBN 4-02-259858-1
- 近藤祐介、2010、「聖護院門跡と「門下」」、『学習院大学文学部研究年報』(57)、NAID 110008448906 pp. 1-27
- ―、2017、「聖護院門跡の成立と展開」、永村眞(編)『中世の門跡と公武権力』、戎光祥出版 ISBN 978-4-86403-251-3
- 阪本敏行、2005、『熊野三山と熊野別当』、清文堂出版 ISBN 4-7924-0587-4
- 清水健、2008、「西国三十三所―観音霊場の祈りと美―」」、『特別展 西国三十三所 観音霊場の祈りと美』 pp. 214-227
- 関口力、2007、『摂関時代文化史研究』、思文閣出版 ISBN 4-7842-1344-9
- 関口真規子、2008、「醍醐寺史料と修験道」、『山岳修験』(41) pp. 25-45
- 高橋修、1991、「中世前期の熊野三山検校をめぐる一考察」、『くちくまの』(87) pp. 19-28
- 徳永 誓子、2002、「熊野三山検校と修験道」、『年報中世史研究』(27)、NAID 40005503208 pp. 75-100
- ―、2003、「刑部僧正長厳の怨霊」、東アジア恠異学会(編)『怪異学の技法』、臨川書店 ISBN 4-653-03846-5
- 長谷川 賢二、1989、「中世後期における顕密寺社組織の再編 - 修験道本山派の成立をめぐって」、『ヒストリア』(125)、NAID 40003247661 pp. 56-75
- ―、1992、「修験道本山派形成の動向と四国地方の山伏 - 土佐・阿波の場合」、『四国中世史研究』(2) pp. 37-52
- ―、1994、「中世における熊野先達支配について」、『山岳修験』(14) pp. 70-85
- 宮家 準、1992、『熊野修験』、吉川弘文館〈日本歴史叢書〉 ISBN 4-642-06649-7
- 宮地 直一、1956、『熊野三山の史的研究』、理想社