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潘濬

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潘 濬(はん しゅん、? - 239年)は、中国後漢末期から三国時代の武将・政治家。武陵郡漢寿の人。承明。妻は蒋琬の妹[1]。子に潘翥・潘祕、女子一人(孫権の次男孫慮の妻)。

後漢の荊州劉表左将軍(後に漢中王)の劉備に仕え、それぞれから有能だと評価された。後にに仕え、孫権には特に信任され、重く用いられた。『三国志』では呉志に伝がある。

人物

正史における潘濬

姓名 潘濬
時代 後漢時代 - 三国時代
生没年 生年不詳 - 239年赤烏2年)
字・別号 承明(字)
本貫・出身地等 荊州武陵郡漢寿県
職官 武陵郡功曹〔後漢〕→江夏従事〔劉表〕

湘鄉〔劉表〕→荊州治中従事〔劉備〕
→輔軍中郎将兼治中〔〕→奮威将軍〔呉〕
少府〔呉〕→太常〔呉〕

爵位・号等 常遷亭侯〔呉〕→劉陽侯〔呉〕
陣営・所属等 劉表劉備孫権
家族・一族 子:潘翥 潘祕 義子:孫慮 義兄:蒋琬

20歳前後の時、宋仲子から学問を学んだ。『呉書』によると、聡明な資質を持ち、人との応対は機敏、その言葉は理論立っていたとされ、王粲に高く評価されたのを機に、荊州の人士の間で名声を得た。30歳以前で劉表に召し出され、江夏郡の従事となった。当時、江夏郡は汚職官吏の横行によって統治が乱れていたが、潘濬は彼等を法に照らして処罰したので、民衆は彼の厳格な法の適用を恐れ、郡を挙げて従うようになった。その後、湘郷県の令として優れた治績を上げ、人々の評判は極めて高かった。

劉備が荊州を治めるようになると、その配下となり荊州の従事を務めた。劉備が蜀に入ると、荊州に留められ州の事務を一任される事になった。劉備には信任されていたが、荊州の督であった関羽には、糜芳士仁と同様に疎まれていたという[2]

219年呂蒙の計略により、荊州を守備していた糜芳・士仁が寝返り、関羽も殺害され、荊州は孫権によって占領された[3] [4]。『江表伝』によると、荊州にいた劉備配下の部将や役人のほとんどは孫権に帰順したが、一人潘濬だけは自宅に退き出頭しなかった。孫権は部下に命じて潘濬の説得を試みたが、潘濬は寝台の上で泣くばかりで出頭を拒否した。そこで孫権は潘濬を寝台にくくり付けて自分の下に連行させ、自ら親しくその説得に当たり、心服させた。潘濬は輔軍中郎将に任じられ、荊州の軍事を委任された(『江表伝』によると治中も兼任)。まもなく奮威将軍に昇進し、常遷亭侯に封じられた。

『江表伝』と『襄陽記』によると、220年に武陵の部従事であった樊抽が異民族(武陵蛮)をまとめあげ、221年には以前の潘濬の同僚である習珍もこれに呼応し、昭陵太守を自称した。夷陵の戦いに東進する劉備に呼応するためである。孫権は樊抽達の旧知でもあり、荊州の事情に通じている潘濬に仮節を授けて諸軍を統率させ、歩騭と共にその鎮圧に当たらせた。潘濬は信賞必罰をもって軍規を徹底した上で討伐にあたり、異民族を鎮撫する事に成功した。ついで習珍にも一時、軍を引き下げて降伏を勧めたが、これは拒絶されている。

後に周魴曹休に送った偽降の手紙によると、潘濬は異民族の降伏者を多数編入し強大な軍勢を率いていたという[5]

孫家の古参の将軍の一族である芮玄(孫登の妻の父)が226年に亡くなった後、その兵士を与えられ夏口に駐屯したという[6]

229年、孫権が皇帝に即位すると、潘濬は少府に任じられ、劉陽侯に封じられた。やがて太常に昇進した。陸遜と共に旧都の武昌の守備にあたったという。

これより以前、歩騭は226年より漚口に駐屯するようになったが、驃騎将軍となった229年以降に[7]、軍勢の強化を図るため、私兵を雇う事を孫権に願い出たが、潘濬は歩騭が軍閥化するのを危惧する意見を提出し、孫権はこの意見に従って許可しなかった[6]。また、名声が高く横暴な振る舞いが目立った中郎将である予章の徐宗を斬った[6]。これらは、潘濬が法を重んじて人々の評判を意に介さなかった例として挙げられている。

230年、魏から隠蕃という人物が投降し、朱拠郝普など多くの人物が彼を賞賛したが[8]、潘濬は投降者の彼と付き合おうとする子を叱りつけた。後に隠蕃が密偵であることが判明すると、潘濬の先見の明は賞賛された[6]

時期や経緯は不明だが、娘を建昌侯の孫慮に嫁がせている。孫慮は232年に若くして没した。

231年、五谿の異民族(五谿蛮)が反乱を起こすと、五万の兵を率いて出陣した[3]。このとき、長沙にいた呂岱の協力も受け[9]呂拠朱績鍾離牧といった将軍も率いていたが、鍾離牧を一時置き去りにしなければならないほど苦戦したこともあったという[10] [11] [12]234年の冬11月になって、ようやく反乱を鎮圧した[3]。このとき、数万の敵を斬るか捕虜にしたという。

異民族討伐を終えると、旧都の武昌の守備に再びついた。

234年丞相諸葛亮が没し、その跡を受けて蒋琬が大将軍となると、彼との縁戚関係から、潘濬の蜀との内通を疑う意見が出され、これを真に受けた武陵太守の衛旌が孫権に報告をしたところ、孫権はそれを取り入れず、封をしたまま潘濬に手紙を渡し、衛旌を中央に召喚し免職にした[1]

この頃、孫権に寵愛された呂壱が、家臣の昇進や処罰を妄りに行い、権勢をほしいままにしていた。建安太守の鄭冑という人物が呂壱の讒言により獄に下されたときも、陳表と共にこれを諌め、無罪放免させたという[13]。さらに、丞相の顧雍や左将軍の朱拠までもが軟禁されるという宮中の混乱に潘濬は激怒し、同じく事態を憂慮していた陸遜と協力し[14]、呂壱の排除を計画した。呂壱は顧雍を排除した後、潘濬がその後任になることを知ると、慌てて顧雍を無罪放免とした。

潘濬は上京して孫権に直接訴えようとしたが、既に太子の孫登の諫言すら取り上げられなかったことを知り、百官を全て集めてその場で呂壱を殺そうと計画していたが、呂壱が事前に察知して参内を避けたため果たせなかった。その後も潘濬は孫権に目通りする度に呂壱の悪事を糾弾した。歩騭もまた、潘濬や陸遜の意見を支持したという[7]

これによって孫権の呂壱への寵愛もやがて失せ、238年に呂壱は処刑された。孫権は、自らの不明を百官に謝罪すると共に、呂壱の悪事を諌めなかった重臣も同時に糾弾した。潘濬は陸遜と共に、涙を流しながら苦しげな態度をとったため、孫権を不安にさせたという[3]

239年死去。潘翥が跡を継いだ。『呉書』によると、潘翥は若くして亡くなり、弟の潘祕が跡を継ぎ、孫権の姪(姉の子)を娶ったという。荊州での任務については呂岱が引き継いだ[9]

物語中の潘濬

小説『三国志演義』では、関羽の家臣として登場し、王甫から「信用できない小者」と評されており、また酒好きな人物とされている。物語中ではこの場面で名前が出るのみであり、糜芳・傳士仁や范彊張達ら蜀にとっての反逆者や、徐晃や呂蒙、潘璋朱然といった関羽を追い詰めた他勢力の人物とは違い、その後の出番も無く、死因を変えられたりもしていない。

評価

『季漢輔臣賛』では糜芳・士仁・郝普と並び、呉蜀二国において裏切り者・笑い者との評を得たとされている。歩騭をしばしば警戒するような行動をとったが、当の歩騭からは高く評価されていた[7]陳寿は、私利を求めず国家の大事を求めたことを評価している。

脚注

  1. ^ a b 『三国志』潘濬伝注『江表伝』
  2. ^ 『三国志』楊戯伝の「季漢輔臣賛」。
  3. ^ a b c d 『三国志』呉主伝
  4. ^ 『三国志』呂蒙伝
  5. ^ 『三国志』周魴伝
  6. ^ a b c d 『三国志』潘濬伝注『呉書』
  7. ^ a b c 『三国志』歩騭伝
  8. ^ 『三国志』胡綜
  9. ^ a b 『三国志』呂岱伝
  10. ^ 『三国志』呂範伝付・呂拠伝
  11. ^ 『三国志』朱然伝付・朱績伝
  12. ^ 『三国志』鍾離牧伝注『会稽典録』
  13. ^ 『三国志』呉主伝注『文士伝』
  14. ^ 『三国志』陸遜伝

参考文献

  • 三国志』呉書16潘濬伝 呉書2呉主伝 呉書9呂蒙伝 呉書15呂岱周魴鍾離牧伝 呉書7歩騭伝 呉書17胡綜伝 呉書11呂範伝付・呂拠伝 呉書13陸遜伝 蜀書15楊戯伝
  • 三国演義