津田信澄

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津田信澄
時代 安土桃山時代
生誕 弘治元年(1555年[要出典]
死没 天正10年6月5日1582年6月24日
改名 信重、信澄
別名 坊丸(幼名)、七兵衛(通称)
主君 織田信長
氏族 津田氏
父母 父:織田信行(信勝)、
母:荒尾御前または高嶋局(和田備前守の娘)
養父:柴田勝家磯野員昌
兄弟 信澄信糺織田信兼
正室:明智光秀の娘
織田昌澄織田元信
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安土城にある信澄邸跡

津田 信澄(つだ のぶすみ)は、安土桃山時代武将織田氏の一族。

生涯

弘治元年(1555年)、織田信行(信勝)の嫡男として生まれる。弘治3年(1557年)に信行が兄の織田信長によって殺された後、幼少のため、また信長と信行の生母である土田御前の助命嘆願もあって、信長の命令により、柴田勝家の許で養育された。このこともあって、織田氏を名乗らず津田氏を称したともいわれる。

信長が近江を平定すると、北畠氏神戸氏同様乗っ取り政策の一環として、浅井氏旧臣で高島郡一職を任されていた磯野員昌の養子となる。

信澄は智勇に優れており、果断な性格で信長に大変気に入られていた。織田家では信長の息子である信忠信雄信孝や弟の信包の次にその待遇は厚かったという。織田氏は一族傍流が非常に多く、実子であっても信正のように冷遇された者もいる中(信正の実在を疑問視する説も多い)、二度も信長に背いた弟の遺児がこれほどまでに厚遇されているのは、破格の待遇と言ってよいであろう。

天正2年(1574年)に諸将に混ざって蘭奢待切り取りの奉行を務める。この頃、信長の仲介で明智光秀の娘と婚約した。

天正3年(1575年)に越前一向一揆討伐戦で柴田勝家らとともに鳥羽城を攻略し、一揆の弾圧を指揮した。翌天正4年(1576年)には光秀の丹波攻めに援軍として参加している。

天正6年(1578年)2月、養父の員昌が織田家から出奔したため、近江高島郡を知行として与えられ、大溝城を居城としている。こうして独自の軍を持つようになった一方、信長の側近的な役割もたびたび果たし、その信頼が厚かったことが知れる。

天正10年(1582年)、信長が四国征伐の命を信孝軍団に下すと、信澄は信孝の副将の一人となり大坂へと赴いた。しかし同年6月2日本能寺の変で光秀によって信長が殺されると、明智氏と内通を疑われて同月5日に信孝と丹羽長秀の軍勢に襲撃された。野田城で信孝家臣峰竹右衛門・山路段左衛門・上田主水によって殺害され、首はで晒された。享年28。

子孫は江戸幕府の旗本として幕末まで存続した。

人物

  • 信澄は光秀の娘婿という関係と、過去の因縁からか信孝に疑われたと考えられるが、信澄は光秀の謀反とは無関係であったということが、近年では有力視されている。また、信長でさえもその才覚を認める程であった信行の血統の彼が、信長の死後、織田家の家督を奪うのではないかと疑われた、つまり後継者争いの最初の犠牲者とする見方もある。
  • 信澄は「一段の逸物」「甚だ勇敢だが残酷」と『多聞院日記』『耶蘇年報』で記されている。

関連項目