洞院満季

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洞院満季
時代 室町時代前期
生誕 元中7年/明徳元年(1390年
死没 不詳
改名 聖覚→浄導(法名
別名 西山内府
官位 内大臣従一位
主君 後小松天皇称光天皇後花園天皇
氏族 藤原北家閑院流西園寺庶流、洞院家
父母 父:洞院実信、母:法印兼快女
猶父:洞院公定
兄弟 満季禅信
法印兼真女
西御方、実熙禅信
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洞院 満季 (とういん みつすえ)は、室町時代前期の公卿権大納言洞院実信の子で、母は法眼兼快の女だが、権大納言洞院公定猶子となる。後小松天皇の寵臣であり、その勅命を奉じて『本朝皇胤紹運録』を撰進した。

経歴

将軍足利義満偏諱を受ける。応永16年(1409年)12月左中将のまま従三位に昇叙され、公卿に列した。同18年(1411年)1月正三位、閏10月参議、同21年(1414年)11月権中納言従二位に叙任。同22年(1415年大嘗祭節会に遅参し、将軍足利義持から譴責を受けている。同26年(1419年)1月正二位、12月権大納言に叙任され、同月の任大臣節会では外弁に奉仕。同28年(1421年今出川公行薨去今出川家が断絶するに及び、後小松上皇から同家領の一つ左馬寮領の半分が還付される。同30年(1423年)8月右近衛大将に任じられたが、これは上皇の肩入れで将軍家の推す久我清通を退けたためであった[1]。同31年(1424年)4月内大臣に昇任。同33年(1426年)5月上皇の勅命で先行の皇室系図を勘案した「帝王系図」(『本朝皇胤紹運録』)を撰進して程なく内大臣を辞し、8月従一位宣下された[2]

永享3年(1431年)3月上皇の落飾に殉じて出家。上皇の落飾に立腹した将軍足利義教が、満季らの出家伺いに対して、「今日中に出家しなければ罪科に処する」と脅したため、早々の出家を余儀なくされたという[3]法名聖覚、後に浄導へ改める。義教から睨まれた満季は娘をその側室(西御方)に送り、退勢の挽回を期するも、同5年(1433年)孫娘が誕生。同6年(1434年)2月西御方が放逐されたことで、左馬寮領を没収された。同11年(1439年)には存命か。

上皇の師範となったことで知られるとおり雅楽に堪能であったが、自身の器量よりも上皇の情に訴えて数寄心を向けさせることに巧みで、上皇の庇護を受けて雅楽界の中心を占めた。和歌は『新続古今和歌集』に2首入集。

脚注

  1. ^ この人事について、『看聞日記』の記主貞成親王は「仙洞ハ洞院御贔屓」と評している(同年8月24日条)。
  2. ^ 『本朝皇胤紹運録』撰進の功績による叙位と考えられるが、一説に前年(1425年)4月とする。
  3. ^ 『看聞日記』同年3月24日条

参考文献

  • 坂本麻実子 「15世紀の雅楽界(8) 洞院家三代と雅楽」(『MLAJ newsletter』Vol.7,No.5 音楽図書館協議会、1986年1月、NCID AN10146655
  • 位藤邦生 「『看聞日記』の文学的研究」(『伏見宮貞成の文学』 清文堂出版、1991年、ISBN 9784792413125
  • 末柄豊 「洞院公数の出家―東山御文庫本『洞院家今出川家相論之事』から―」(田島公編 『禁裏・公家文庫研究 第1輯』 思文閣出版、2003年、ISBN 9784784211432


先代
洞院実信
洞院家当主
第8代
次代
洞院実熙