河辺正三

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河辺 正三
河辺正三
生誕 1886年12月5日
富山県
死没 (1965-03-02) 1965年3月2日(78歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1907 - 1945
最終階級 陸軍大将
指揮 航空総軍司令官
第1総軍司令官
第15方面軍司令官兼中部軍管区司令
中部軍司令官
ビルマ方面軍司令官
第3軍司令官
第12師団
支那駐屯歩兵旅団長
歩兵第6連隊
戦闘 盧溝橋事件
日中戦争
第二次世界大戦
*ビルマの戦い
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河辺 正三(かわべ まさかず、1886年12月5日 - 1965年3月2日)は、昭和初期の富山県出身の陸軍軍人陸軍大将)。ビルマ方面軍司令官航空総軍司令官、第1総軍司令官を歴任した。インパール作戦を指揮した第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の上官でもあった。また、河辺虎四郎の兄でもある。陸士卒(19期)、陸大卒(27期)。

年譜

エピソード

牟田口廉也とは盧溝橋事件当時も部下と上司の関係であった。インパール作戦に際しては「かねてより牟田口が熱意を持って推進してきた作戦なのでぜひやらせてやりたい」と作戦を認可。その後、敗色濃厚となった1944年(昭和19年)6月に牟田口を訪ねて戦況を確認した際、両者とも作戦の中止を内心考えていた(後に、牟田口は防衛庁防衛研究所戦史室の取材に「言葉ではなく、私の顔を見て真意を察して欲しかった」と語っている)が、責任を取ることへのおそれからお互いそれを言い出せず、結果として中止決定が遅れ、損害の拡大につながった。