村上啓作
村上 啓作 | |
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生誕 |
1889年6月16日 日本 栃木県 |
死没 |
1948年9月17日(59歳没) クラスノゴルスクの収容所 |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1910 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
村上 啓作(むらかみ けいさく、1889年(明治22年)6月16日 - 1948年(昭和23年)9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
栃木県出身。農業・村上角次の四男として生れる。陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を優等で卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる。1916年11月、陸軍大学校(28期)を優等で卒業した。
陸軍技術審査部付(軍事調査部)、歩兵第3連隊付(ロシア出張)、ロシア駐在、陸大教官、兼参謀本部員、参謀本部員、陸大教官、陸軍省軍務局課員(軍事課)、歩兵第34連隊長、陸軍歩兵学校教導隊長、陸軍省兵務課長などを歴任し、二・二六事件当時は軍事課長であった。陸大教官を経て、1937年8月、陸軍少将に進級。
関東軍司令部付を経て、1939年10月、陸軍中将となる。日中戦争では第39師団長として出征し、宜昌作戦に従事した。陸軍科学学校長、参謀本部付、総力戦研究所長、陸軍公主嶺学校長、関東軍司令部付などを歴任し、1944年11月、第3軍の最後の司令官に就任し、延吉で終戦を迎えた。戦後、シベリア抑留となり、1948年9月、クラスノゴルスクの収容所で病死した。
年譜
- 1910年5月28日 - 陸軍士官学校(22期恩賜)卒
- 1916年11月25日 - 陸軍大学校(28期恩賜)卒
- 1937年8月2日 - 陸軍少将
- 1939年10月2日 - 陸軍中将・第39師団長
- 1944年11月22日 - 第3軍司令官
- 1948年9月17日 - クラスノゴルスクの収容所で病死
栄典
- 位階
- 1911年(明治44年)3月10日 - 正八位[1]
- 1914年(大正3年)2月10日 - 従七位[2]
- 1919年(大正8年)3月20日 - 正七位[3]
- 1924年(大正13年)5月15日 - 従六位[4]
- 1937年(昭和12年)9月1日 - 正五位[5]
- 勲章
評価
陸大47期首席で、陸軍及び陸上自衛隊で要職を務めた高山信武は、村上から直接教えを受けたことはないものの、その著作や令名にしばしば触れており、村上を昭和初期における日本兵学の最高権威と称しても過言ではないとしている。[7]
家族親族
著作
- 『戦争要論』陸軍大学校将校集会所、1925年12月。 NCID BN08601418。全国書誌番号:43011109。
- 『戦争要論』(復刻版)東京都防衛協会、1968年10月。 NCID BA39119184。全国書誌番号:72003498。