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李堈

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李堈

李堈り・こう(日本語読み)、イ・カン(朝鮮語読み)、1877年3月30日 - 1955年8月17日)は大日本帝国公族にして旧大韓帝室の子孫。

生涯

併合前

大韓帝国皇帝高宗の五男として誕生する。母は貴人張氏。異母兄に純宗、異母弟に皇太子・李王李垠がいる。

1892年1月に「義和君」となり、翌1893年に金思濬の娘と結婚。1894年に日清戦争の祝賀使として日本に訪問した。翌年には欧米各国を歴訪した。その後、慶応義塾大学やアメリカの大学に留学した。その間に朝鮮は大韓帝国となり、「義親王」に封じられた。

1905年に帰国し、翌年に大韓帝国最高位の勲章である大勲位金尺大綬章が授与された。

併合後

韓国併合により1910年8月、「公」に封ぜられて恩賜公債84万円を賜り、日本の公族の身分となった。李家では、併合前の財産と恩賜公債の利子で年間4万円の収入があったが、李の散財により、瞬く間に家政が逼迫した。李王職が公家を監督しようとすると、李はそれに反発し、詐欺事件を起こしてでも金策に奔走した。

朝鮮独立運動組織「大同団」は、こうした李に目を付け、「金は出すから、朝鮮から出て独立運動の象徴となってほしい」と彼を騙し、公誘拐事件を起こすに至っている。

こうした李の行動は、後に制定された王公家軌範第69条の「其ノ品位ヲ辱ムルノ所行」に相当する行為であったが、王公家軌範制定前で王公族を懲戒する法的根拠がなかったため、李王が李を呼び出し、誓約書を書かせるのが精一杯であった。

王公家軌範制定後の1930年6月12日に隠居し、公位は長男の李鍵が継承した。

家族

妃は金氏(金思濬長女、1880年12月22日 - 1964年1月14日)である。1893年12月6日に結婚。この他に数多くの側室[1]がいる。

子女は以下の通りである。

  • 長男 李鍵(り・けん、1909年10月28日 - 1990年12月21日)
    公族の地位を継承、1947年5月3日の日本国憲法施行に伴い公族の身分を喪失。日本に帰化し、桃山虔一を名乗る。
    • 鍵公妃 誠子(よしこ、1911年10月6日 - 2006年6月28日)
      高松藩主分家松平胖長女。1931年10月5日結婚、1951年5月離婚。2男3女のうち1男1女は母方の姓を称する。
  • 次男 (り・ぐう、1912年11月15日 - 1945年8月6日)
    大院君(高宗皇帝の父)の嫡孫・李埈公の公位を継承。広島原爆により死亡。

以下は庶出の子女である。

  • 三男 鎊(パン、1914年-1951年)
  • 四男 鎗(チャン、1915年 - )
  • 五男 鑄(チュ、1918年 - 1982年)
  • 六男 錕(コン、1920年 - )
  • 七男 鑛(クァン、1921年-1952年)
  • 八男 鉉(ヒョン、1922年 - 1998年)
  • 九男 鉀(カプ、1938年 - )李源の父。
  • 十男 錫(ソク、1941年 - )
  • 十一男 鍰(ファン、1944年 - )
  • 十二男 錠(チョン、1947年 - )
  • 長女 海琬(ヘワン、1915年-1981年)
  • 次女 海瑗(ヘウォン、1919年 - )
  • 三女 海珺(ヘチュン、1920年~2009年)
  • 四女 海璛(ヘソク、1920年-)
  • 五女 海瓊(ヘギョン、1930年-)
  • 六女 恵子(ヒジャ、1940年-)
  • 七女 海珃(ヘラン、1944年-)
  • 八女 海瑢(ヘリョン、1950年-)
  • 九女 昌恵(チャンヒ、1951年 - )

脚注

  1. ^ 彼女らは全て朝鮮人というわけでなく、内地人日本人)の妾も確認されるだけで2人いた。

参考文献

関連項目