日野栄子
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日野 栄子(ひの えいし[1]、えいこ[2]、明徳元年/元中7年(1390年[2]) - 永享3年7月27日(1431年9月3日))は、室町時代中期の女性。室町幕府第4代将軍・足利義持の正室。同第5代将軍・足利義量の生母にあたる[1][2]。
生涯
権大納言・日野資康の娘で、大納言・日野重光の妹にあたる[1][2]。他に兄に日野豊光、姉に第3代将軍・足利義満の正室となった日野康子、叔母に日野業子がいる。足利義持の正室として嫁ぎ、応永14年7月24日(1407年8月27日)に義量を生んだ[1]。
義持との夫婦仲は良好で[註 1]、義持が奈良や伊勢参詣に赴く際には同伴している[2]。栄子も神仏への信仰心が深く[註 2]、伊勢神宮や熊野詣に何度も出かけた[註 3]。義持と同じ趣味である田楽を好んだ。
義持の晩年には大方殿と呼ばれた[3]。応永32年2月27日(1425年3月17日)に義量が19歳で早世し、義持も応永35年1月18日(1428年2月3日)に43歳で死去すると、1月19日に常徳院海門和尚を戒師として落髪し[註 4]、慈受院と号した[1][3]。同日に宣下があり、従一位に叙された[3]。6月に第6代将軍・足利義教の婚儀があり、その正室には重光の娘・日野重子に決定するが、重子は「不受の気色(不同意、同意しない)」を示したという。このため栄子が重子を説得して嫁がせたと伝わる[3]。
永享3年(1431年)7月27日に死去[1][4]。享年42[1][4]。戒名は竹庭大禅定尼浄賢[1]。
将軍の義教が栄子の死に何らかの行動を取った記録は無い[4][註 5]。
義持との間には義量以外にも2人ずつ男女(男子の名は不明、女子は大聖寺慈敬、喝食御所)がいたようだが[註 6][4]、男子は早世し、女子はどうなったかは不明である[5]。
脚注
註釈
出典
参考文献
- 書籍
- 伊藤喜良『足利義持』(人物叢書)吉川弘文館、2008年 ISBN 978-4-642-05246-7
- 安田元久『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年
- 史料
- 『満済准后日記』
- 『康富記』
- 『花営三代記』
- 『建内記』