平忠常
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 天延3年9月13日(975年10月19日)? |
死没 | 長元4年6月6日(1031年6月28日) |
別名 | 忠恒、忠経、千葉小次郎? |
官位 | 従五位下、上総介、武蔵国押領使 |
氏族 | 桓武平氏、房総平氏 |
父母 | 父:平忠頼、母:左京大夫藤原教宗の娘[1] |
兄弟 | 将恒、忠常、頼尊 |
妻 | 正室:平公雅の娘 |
子 | 平忠将、常将、常近、常遠、胤宗、忠高 |
平 忠常(たいら の ただつね)は、平安時代中期の武将、豪族。父は陸奥介平忠頼で、房総平氏の祖。
生涯
祖父の平良文は武蔵国村岡に土着して村岡五郎と称して、下総国相馬郡の大半を所領とした。父の忠頼も関東で有力な武士として名をはせた。忠常は祖父と父の地盤を引き継ぎ、常陸国、上総国、下総国に広大な所領を有し、上総介(『日本紀略』による。『応徳元年皇代記』には下総権介)、武蔵押領使に任官されている(これらの官に任官はされず自称という説もある)。諸系図では下総国千葉郡にて千葉小次郎と称したというが、不明である。京に上り藤原教通(藤原道長の次男)に仕えていた形跡がある。忠常は強大な武力を背景に傍若無人に振る舞い、国司の命に従わず租税も納めなかったとされる。
長元元年(1028年)6月、忠常は安房国の国府を襲い、安房守平惟忠を焼き殺す事件を起こした。原因は不明だが受領との対立が高じたものと思われる。朝廷は忠常追討を命じ、追討使平直方が派遣された。官軍を相手に忠常は頑強に抵抗した。乱は房総三カ国に広まり、合戦の被害と官軍による強引な徴発により大いに疲弊した(平忠常の乱)。
長元3年(1030年)9月、平直方が解任され、甲斐守源頼信が追討使に任じられた。長期にわたる合戦で忠常の軍は疲弊しきっており、長元4年(1031年)春に忠常は出家して常安と称し、子2人と従者をつれて頼信のもとへ出頭して降伏した。同年6月、京へ連行される途上の美濃国野上で病没した。忠常の首ははねられ、京で梟首とされたが、後に首は親族へ返されている。子の常将と常近も罪を許された。
忠常の子孫は房総半島の有力武士として残り、後に鎌倉幕府の御家人となる上総氏、千葉氏が出た。
平忠常が登場する作品
- 『平安流風』桑山泰雄
脚注
関連項目
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