帝国公道会
帝国公道会(ていこくこうどうかい)とは、戦前の日本の融和運動団体。
概要
被差別部落の生活改善と思想善導を目的とした全国組織の結成を計画した奈良県の松井庄五郎や山口県の岡本道寿らの運動が存在していた。彼らは当初別個の活動をしていたが、偶然にも明治初期の解放令制定にも関わった元代議士の大江卓を顧問に迎えようとしたところから、大江の提案で大同団結を図ることになった。政財官界や宗教界の代表に参加を呼びかけて大正3年(1914年)6月7日に結成された[1]。
役員
初代会長は板垣退助、副会長は大木遠吉・本田親済が就任し、解放令発布を明治天皇の恩徳とし、恩徳に報いるために社会はこれまでの差別を反省して部落の住民への同情を注ぎ、住民も社会の一員として認められるような行動を求めた[1]。
活動
機関誌『公道』を発刊して世論の喚起を促し、また各地の部落の現状を調査して差別問題の調停や北海道などへの移住による生活改善策の実施を図った。ただし、実際には大江ら数名のみしか積極的な活動をしなかったとされている。
大正7年(1918年)米騒動が発生すると、水野錬太郎内務大臣の要請を受けた大江は各地の部落を回って軽挙妄動を慎むことを諭した。大正8年(1919年) 2月23日に各界名士や部落指導者を招いて第1回同情融和大会(どうじょうゆうわたいかい)を開催して「部落改善」「同情融和」を決議したが、同年7月16日、会長の板垣退助が薨去[1]。これに伴い、大木が第2代会長に就任し、大江が副会長に就任した。また同年、大木遠吉は大日本国粋会総裁に就任。同和団体に右翼思想が流入するきっかけとなった。
大正10年(1921年)2月13日に、第2回大会を開き[2]「明治天皇の聖旨を奉戴し、上下一致同情融和の実を挙げむことを期す」とする決議を採択した。だが、この大会では同情融和論に反対して部落大衆による自主解放を求める檄文が撒かれる[2]など、その恩恵性・欺瞞性に対する批判も行われるようになった。更に同年に大江が死去し、翌年に全国水平社が結成されると、活動自体が衰退した。大正14年(1925年)には全国融和連盟の傘下に入ったが、衰退は止まらず、昭和2年(1927年)7月30日に中央融和事業協会に吸収されて消滅した。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 朝治武『差別と反逆 平野小剣の生涯』筑摩書房、2013年。ISBN 978-4-480-88529-6。
- 『板垣精神』一般社団法人 板垣退助先生顕彰会編纂、2019年2月11日出版、ISBN 978-4-86522-183-1 C0023