布忍村
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ぬのせむら 布忍村 | |
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廃止日 | 1955年2月1日 |
廃止理由 |
新設合併 松原町、天美町、布忍村、恵我村、三宅村 → 松原市 |
現在の自治体 | 松原市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 大阪府 |
郡 | 中河内郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
5,664人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 中河内郡松原町、天美町、南河内郡北八下村 |
布忍村役場 | |
所在地 | 大阪府中河内郡布忍村大字更池 |
座標 | 北緯34度34分37秒 東経135度32分16秒 / 北緯34.57708度 東経135.53769度座標: 北緯34度34分37秒 東経135度32分16秒 / 北緯34.57708度 東経135.53769度 |
ウィキプロジェクト |
布忍村[1](ぬのせむら)は、大阪府中河内郡にあった村。現在の松原市東新町・南新町・北新町にあたる。
地理
[編集]- 河川:西除川
歴史
[編集]年表
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、丹北郡更池村・高木村・清水村・向井村・東代村の区域をもって発足。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 所属郡が中河内郡に変更。
- 1955年(昭和30年)2月1日 - 松原町・天美町・恵我村・三宅村と合併して松原市が発足。同日布忍村廃止。
大字
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- 大字高木は、古来丹北郡に属し、もと布忍郷の内にあり、高木村と称した[2]。1871年7月14日丹南県に属し、同年11月22日更に堺県の管轄に転じた[2]。1872年2月河内国第二十区に属し、1874年1月22日第一大区一小区に改まり、同4月13日其の二番組に入り、1876年12月7日番組廃せられて、単に第一大区一小区となり、1880年4月14日八尾郡役所部内となり、同月23日第五連合に属し、1881年2月7日大阪府の管轄となり、翌3月5日清水・更池・向井・東代と五ヶ村と連合し、1884年7月1日第五戸長役場の管理区域に入って1889年4月1日の町村制施行に至った[2]。
- 大字更池は古来丹北郡に属し、もと布忍郷の内にあり。更池村と称した[2]。1705年村の大部分が武蔵国川越藩の大名秋元氏の領地になった[2]。南・北の二部落に分かれ、南更池は支郷だったが、1871年8月、本郷に合併されて字地となった[2]。1868年初め新に御料となって、翌2月大坂裁判所司農局の支配に移り、同5月2日大坂府司農局の支配に改まり、同7月南司農局に属し、1869年正月20日河内県の管轄に換り、同年8月2日更に堺県の管轄に転じた[2]。管轄及び区画の変遷は大字高木と同じ[2]。旧更池村南方の人たちは、江戸時代、死牛馬の処理に関わっており、明治にはいってからは屠畜も行うようになった[3]。
- 大字向井は古来丹北郡に属し、もと布忍郷の内にあり、向井村と称した[2]。
村政
[編集]行政区は更池、清水、高木、向井、東代[1]。村長は以下の通りである。
村長
[編集]- 寺内憲治[1]
経済
[編集]産業
[編集]- 農業
産物は米、麦、蔬菜[1]。『大日本篤農家名鑑』によれば、布忍村の篤農家は伊藤、妻屋、木下、山口姓の人物がいた[4]。
- 企業
- 更池銀行[1]
人口
[編集]1930年に刊行された『市町村治績録 改訂第2版』によると、戸数555、人口2796[1]。
交通
[編集]鉄道路線
[編集]名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
[編集]神社・寺院
[編集]- 布忍神社
- 浄林寺
- 称名寺
- 教通寺
- 宝泉寺
- 大林寺
- 浄信寺
施設
[編集]- 尋常小学校[1]
出身・ゆかりのある人物
[編集]- 寺田駒蔵[5] - 更池銀行専務取締役。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 人事興信所編『人事興信録 4版』人事興信所、1915年。
- 井上正雄『大阪府全志 巻之4』大阪府全志発行所、1922年。
- 日本自治協会編『市町村治績録 改訂第2版』日本自治協会、1930年。
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典 27 大阪府』角川書店、1983年。