崔琰
崔琰 | |
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中尉 | |
出生 |
延熹6年(163年) 冀州清河郡東武城県 |
死去 | 建安21年(216年) |
拼音 | Cuī Yǎn |
字 | 季珪 |
主君 | 袁紹→曹操 |
崔 琰(さい えん、延熹6年(163年) - 建安21年(216年)8月)は、中国後漢末期の武将、政治家。字は季珪。清河郡東武城県の人。『三国志』に伝がある。
生涯
公明正大で誠実な人柄であった。
若い頃は剣術を好み、23歳のときに兵士として出仕したが、その後、発奮して学問に励み『論語』と『韓詩』を読んだ。29歳の時に公孫方らとともに鄭玄に師事した。1年ほどして、黄巾賊が北海郡を襲撃し、鄭玄は弟子とともに山に避難したが、食料が不足したため、弟子達に退学を言い渡さざるを得なくなった。崔琰は盗賊がいたため帰国ができず、青州・徐州・兗州・豫州の各地を4年かけて回り、遠く寿春まで足を伸ばしたりもした。郷里に帰ってからは読書と音楽を楽しんだ。
大将軍袁紹の招聘を受けその家臣となった。袁紹の兵士が乱暴を尽くし、墳墓を発掘していることを聞いたためこれを諌めた。騎都尉に任命された。袁紹が曹操と対決するため軍を南下させると(官渡の戦い)、皇帝が許の曹操の元にいるのだから、まずは国境を守るべきと勧めた。しかし袁紹には聞き入れられず、曹操に官渡で戦い敗れた。袁紹の死後、袁紹の二人の子はいがみ合い、争って崔琰を味方に引き入れようとしたが、崔琰は病気と称して固辞した。これに怒った袁尚は崔琰を投獄したが、陰夔と陳琳の嘆願で許された。
曹操が袁氏を破り、冀州牧になると崔琰を召し寄せて、冀州の別駕従事にした。この時、曹操は冀州の戸籍を調べて、「30万人の軍隊を手に入れられそうだ。従って、冀州は大州と言えるだろう。」と言ったところ、崔琰は、「戦乱に苦しむ民の気持ちをまず思いやるべきなのに、なぜ軍勢の話をするのか」と直言した。曹操は陳謝したが、周囲は顔面蒼白となった。曹操が并州を討伐すると、崔琰は鄴に残され、曹丕の補佐を任された。狩猟に熱中する曹丕を厳しく諌めている。
曹操が丞相となると、崔琰は東曹・西曹の属官となり、徴事にもなった。曹操が魏公となると、崔琰は尚書に任命された。毛玠と共に長年にわたり人事で辣腕を振るった(『先賢行状』、毛玠伝)。曹操が曹丕の弟の曹植を寵愛し、太子をどちらにするか悩み、家臣に文書に封をして意見をするよう求めた時、崔琰は姪が曹植に嫁いでいたにも関わらず、敢えて文書に封をせず、長子である曹丕を後継にすべきと理を尽くして主張した。曹操は改めて崔琰に敬意を払い、中尉に任命した。
崔琰は威厳のある容姿をしており、髭が四尺あった。朝廷の官僚達の尊敬を集め、曹操ですら遠慮するほどの人物であったという。また、人を見る目が優れており、司馬朗と仲が良かったが、司馬朗の弟の司馬懿の才能を非常に高く評価した。また、孫礼・崔林・盧毓は当時は評価の低い人物であったが、崔琰は彼等を高く評価し、後に皆三公になった。友人である公孫方と宋階が早くに亡くなったため、その遺児を養育した。
曹操が魏王になった時、崔琰がかつて推挙した楊訓という人物が曹操を賛美する上奏文を出したが、その上奏文に対する崔琰の批評を元に讒言をする者がいて、崔琰は曹操の不興を買い投獄された。囚人になってもまだ堂々としていたため、不快に思った曹操に自害を命じられた[1]。
陳寿は、曹操が当時嫌悪し処刑した人物は、孔融をはじめ何名かいるが、崔琰は最も強くその死を惜しまれ、現在に至っても無実の死であったと信じられている、と述べている。
小説『三国志演義』では、崔琰は曹操が魏王になることに反対したため投獄されるが、あくまで批判を止めなかったため、曹操に撲殺されたことになっている。
一族
- 従弟(或いは甥とも)に司空となった崔林(字は徳儒)がいる。『演義』には登場しない。
- 兄の孫(或いは孫とも)に安定太守となった崔諒がいる。『演義』には、諸葛亮の北伐に翻弄される凡庸な太守の一人として登場する。
- 五胡十六国時代の西晋末期に曾孫である崔毖がいる。
- 兄の娘が曹植の妻となっている。